2022-01-25 カテゴリー: automobile, crafts, maintenance, motorcycle, paintings, tools | 個別ページ | コメント (0)
西武線に乗っていたら車内の吊り広告に目が止まりました。何度か申し上げて来ましたが、イラストレーションには 写真にも ファインアートとしての絵画にも 出来ない素敵な可能性が有ると思っています。それは何だと問われても答えは難しいのですが、この絵は例の一つに挙げても良いのかなと思います。架空の世界の楽しさを伝えるのにこの絵より素敵な方法を思い付きません。絵を’リアル’に描くことに走ると印象が重くなったり、表現上のディテールに目が取られたりします。整理された表現方法で陽光の下、軽やかな楽しさが伝わります。決してお高く止まっては居ませんが示す世界の質は高いと思います。上手いなぁ!
と、ここまで書いて、何で惹かれたのか自分の中で解ってきました。子供の頃何度も見た絵本に似た物を感じたからです。This is LondonなどのThis is~シリーズに似た所がある気がします。
何冊かあったこのシリーズの絵本が大好きでしたが、一つだけ東洋人の顔が暗くて汚い黄色に塗られて居た事がショックでした。
PS
その後、上杉さんというイラストレーターは、既に業界で知らない人の居ない実績のある方だと判明しました。こんな人向こうに行けばゾロゾロ居るか?居ないと思います。子供の頃、雑誌ニューヨーカーを見せてもらって洒落た世界が有るのだな、日本とは違う遠い世界の事なのだなと思いました。でも森本美由紀が居たり、こんな人の居る日本はちょっと凄いぞ。こうした厚みは一朝一夕に出来る物じゃないぞと思います。
一年上のサッカー部に横山さんって人が居て、その世界では有名だって話は随分昔に聞きました。名前をメディアで見かけることも有りましたが、その世界ってどの世界なんだか知りませんでした。人に誘われて八王子夢美術館まで見に行って来ました。模型制作者でイラストレイターでキャラクターデザイナーとでも言ったら良いのでしょうか。絵画に彫刻に建築と言ったジャンル分けでは説明が難しいことが判りました。鎧をモチーフにフィギュアを作る野口哲哉に通じるところがある気がします。何か具合の良い名前をつければ二人の仕事を並べて一つのジャンルが作れるとも思いました。ただフィギュアと言ってしまうと全く別の世界を示してしまう。日本語って難しいですね。
こちらは野口哲哉。
今日はびっくりする程暖かで、道行く人もコートを脱いでいます。上野公園では外国人観光客がTシャツ一枚になっていました。西洋美術館は心配した程混んでなくてラッキーでした。プラド美術館展は本当にベラスケスが7枚も来ていて、これでラス・メニーナスまで来たりしたら、地球の重心が変わってしまうのじゃないかと心配です。ベラスケスも素晴らしいのですが、ルーベンスにファン・アイク、ヤン・ブリューゲルなど思わぬご褒美付きで楽しめました。子供の頃からルーベンスが苦手でしたがここ十年程で何枚か実物を見る事で垣根が低くなりました。肉の塊というよりはヒダの波打つ脂肪の塊、輪郭も怪しげで苦手の一つだったのですが、白い肌に映り込む青や赤の微妙な描き込みが今日は素敵に感じました。あれがどうにも耐えられない時もあるのです。ルーベンスはベラスケスともブリューゲルともお付き合いがあったそうです。二つの展覧会を見た事で知りました。
王子の乗る馬の胴体がまるで樽のようです。あんな馬など居る物か、王様の顎は長すぎるし、ベラスケスって下手なんじゃないのと子供の頃は思っていました。実物の前ではそうした疑念は露ほどにも浮かびませんでした。構図の素晴らしさと何より馬上の王子の素晴らしさの所為だと思います。王様の顎は本当に長かったみたいだし、樽のような馬やラス・メニーナスの侍女の変な顔も本当なのかも知れません。
今の絵の具は均質で被覆力も強くて下の絵を塗り潰すのは造作もないことですが、溶液に擦り込んだ顔料をどうやって画面に固定させるか、今よりずっと難しい代物だったのでしょう。何枚かの絵に書き直した跡が残っていました。
こんなに何枚ものベラスケスが一時に見比べられるのは夢のようです。バリェーカスの少年。顔が輝いた様に見えるので前に見たエル・プリモを思い出しました。(エル・プリモの方が好きかな。)今回来日の他に何枚か有る顎の長い王様ですが、今回の狩猟服版は、抑えた質感と不思議な背景、独特な構図が素晴らしい。闇の中に強い光を当てて浮かび上がらせた(カラバッジョみたい)東方三博士も十分に素晴らしいのですが、顔自体が輝いて見えるエルプリモとバリェーカスは更なる高みに到達している事が明らかです。あぁ、なんという贅沢な事でしょう。
すっり良い気分になって本を買おうとしたらカードが使えず残念でした。折角ですからと都美術館のブリューゲル展も覗いて見ました。
親だの孫だの兄弟だのと大勢いて良く分からない。忘れてしまっていたその関係をおさらいする事が出来ました。
つまる所、必ずしもお絵描きの上手ではないピーテル一世が魂を込めて示した世界観を、更に下手な息子ピーテル二世が表面的は模写でばらまいた。もう一人の息子ヤン一世はテクニックでは親を凌ぐ所があったにもかかわらず表面的な模写という事では兄と変わる所がなかった。更にその息子ヤン二世になると更に形骸化して流儀の継承へと堕ちて行く。ピーテル一世の名声は息子の沢山の模写があってこそと言うのは写真による印刷やマスメディアの無かった時代の皮肉です。
私にとってのブリューゲルはピーテル一世であって、私が期待するブリューゲルは来ていないという事でしょう。息子や孫の複製がほとんででした。期待するブリューゲルは見られなかったけれど当時の社会の状況や長い家族の歴史を学ぶのには好都合です。
PS
色々なメディアに取り上げられる事で情報量が増えるのは有難い事です。丸太のような馬については入り口の真上に掛けられる絵なので見上げた時に丁度良いように描かれているのだとの説明がありました。東大寺の金剛力士像と同じだと言う訳です。本当かな、やっぱり変だなと思う人がいて、捻り出した言い訳だと言う可能性もありますが、本当なら胸のつかえがおります。実物を見るとそんな事気にならなかったのも事実です。
子供の頃、映画の価値は本物の戦車が出てくるかどうかで考えていました。どんなに大作映画でもアメリカのパットン戦車にハーケンクロイツや鉄十字を描いた偽物ドイツ軍が出てくる映画を心底見下していました。まして戦車の出て来ない恋愛映画など、同じ料金を取るのは詐欺に近いと本気で思っていました。人間としての情緒の発達に欠けた所がありました。
ワイエスは、初めて見たのが高校の頃だった気がします。中学だったかも知れません。日本で展覧会があった筈です。父が好きでした。私もその画力と、画面の質感、空気感が好きでした。けれどその圧倒的な描写力からすると不自然な狂いやデフォルメに気が付きながら、あえて目を反らして来ました。その技術だけに目を取られていました。完全な写実からはみ出た部分にこそ顕在化する彼の主題に興味を持ちませんでした。
最後の作品かどうか失念しました。今まで描いて来たモデル達が輪になって踊る’SnowHill’を見て、あぁブリューゲルじゃないかと思いました。踊るモデル達は明らかに実像を写した物ではありません。彼は自らのテクニックを誇るために絵を描いてきた訳じゃない。伝えたい主題が有るのに、私は今まで見ようともしなかった。胸に刺さりました。
’クリスティーナの世界’もその画力故にあたかもワイエスの眼前にそうした実像が存在したかに思えます。けれど這って家に帰る彼女を見て心を打たれたのは事実でも、画面はそうした事実を何度も心の中で再構成した、ワイエスの心象風景なのです。画中ある種の物語の存在に技術至上の私は評価をしかねていました。物語の為の技術だった、重要さの順位を入れ替える事で初めて腑に落ちました。
絵が上手い所為でそうは見えませんが、ワイエスはただ眼前の実像を描いた訳では無かったのです。下手な絵の多い、シュールレアリスムとは別の世界だと思っていましたが、完璧な風景でさえ写実ではない彼の心中の景色だったのです。恥ずかしい事ですが何十年も経ってから、今更気が付きました。
本物の4号戦車やキューベルワーゲン、R75サイドカーの出てくる、’コンバット’はテレビでしたが、感心していました。
子供の頃、玩具は全て父の手作りでした。電池で動く友達の玩具が羨ましかったのを覚えています。目黒区美術館では区にゆかりのデザイナーとして秋岡さんの展覧会をやりました。その後も入り口脇の部屋で秋岡さんに関する企画が何回かありました。今回はKAKの仕事、金子、河とともにという企画だそうです。父の作った玩具と模型もいくつか並べる予定だそうです。
KAKで撮った写真を集めた展示でも思いましたが、よそ様が見て面白い物なのか疑問が残ります。他人様の家族のアルバムを見せられてもなぁ・・とも思いますが、主な展示は別にあります。’1950-60年代の抽象表現から’こちらは岡田謙三、猪熊弦一郎、菅井汲、こちらは充分な見応えがありそうです。
2月10日から3月18日まで目黒区美術館です。
ボンネットのクリア塗装が劣化して酷い事になっています。お店に頼むと結構なお金が掛かるそうです。お店の方でも出来ればやりたくないみたいです。車のフェンダーの傷や凹み、バイクのタンクぐらいは自分で塗った事があります。ダメで元々、今度も自分でやってみようと思いました。
劣化したクリア層を水研ぎで落とすのがこんなに大変だとは思いませんでした。完全に落とせないままサーフェサーを吹けば隠してくれるかと思いましたが、何箇所かで下から出てきて悪さをしました。完全に落とすべきでした。電動の工具を用意しないと、広い面積は素人の手に余ると身に沁みました。屋根の上も広い範囲で劣化が始まっていますが、手を広げる事は断念しました。
手を付けてしまったので仕方がありません。ボンネットだけはどうにかしましょう。けれど、市販の缶スプレーでは狭い所の補修は出来ても広い範囲を塗るのが難しい事も判りました。縦に10センチほどの塗り幅で左右に1メートル程、腕の振りに合わせて一定のストロークで吹けると良いのですが、安定して吹けません。本当は黒の下塗りが出来たらもう一度黒で上塗りをして、最後にクリア塗装をするつもりでした。けれど広い範囲を缶スプレーで塗る事の困難に、手間を掛ける気力が失せました。下塗りにコンパウンドを掛けておしまいにしました。写り込んだ電線の影を良く見ると塗装面が平滑でない事が判ります。いつか気力と良い缶スプレーを用意して、上塗りとクリア塗装を目指したい所です。
2017-09-03 カテゴリー: automobile, paintings | 個別ページ | コメント (0)
絵巻物って傑作もあるけれど、全てが素晴らしい訳でもありません。構図には困難を伴い、お話の説明ばかりに手を取られ一枚の絵とみれば完成度が落ちるのが道理とも思えます。正直に言えば退屈だなと思った事もありました。そんな絵巻物の中でこれは見てみたいと思っていたのが伴大納言絵巻とボストンの平治物語絵巻です。教科書の小さな写真の中からも何か感じる物がありました。
伴大納言の実物をやっと見る事ができました。その筆使いの精細なこと、驚くほど細い筆跡で人の表情から着物の柄までが丁寧に書き込まれています。同時に跳ねる馬や、走る人が驚くほど動的に、勢いのある筆跡で描かれています。今まで見てきた絵巻物とはブラウン管と4Kテレビ程の違いがあります。面相筆で描かれた線の精細は他に例を見ないと書きかけて一人思い出しました。絵画界最大のトリックスターと言えば少し好意的でしょうか、最大の色物ダリはそのいかがわしさとは裏腹に正統的絵画テクのチャンピオンでもあります。少なくとも60〜70センチの大きさかと思っていた絵が10センチ四方程の大きさで驚いた事があります。彼の面相筆の超細密を思い出しました。(もっとも面相筆で輪郭を示す日本画と輪郭の無い色面を極細の筆で書き起こすダリとでは使い方が違います)筆で描かれた人々一人一人の生き生きとした事、清涼殿で藤原良房が対面する清和天皇だけがえらく下手くそに見えるのが不思議です。絵巻物に良くある構図ですから、お決まりあるいはお約束の通りと言う事でしょうか。
実物でしか解らない線があるのと同時に、実物では解らない、印刷物で初めて気がついた線もありました。
面白い経験でした。出光美術館
行く途中の地下鉄でもらったフリーペーパーが気になりました。津上みゆき「時の景、つなぐとき」ポーラミュージアムアネックスと書いてあります。銀座ならついでに覗いて見ましょう。
抽象って本人の意図とは別にある邂逅や衝突が偶然に起きる可能性もあって小さな写真に感じた何かを実物で確かめたいと思いました。
偶然ではありませんでした。名前も来歴も一切知らない人ですがすっかり感心してしまいました。丹念な構成と意図的でなお抑制の効いた勢い、筆使いと色感の絶妙。彩度も高くて勢いもありますが、軽薄なお調子者でもありません。絵だけではたまたま一枚の偶然もあるかと思いましたが、スケッチを見て確信しました、凄く上手い。山程ある美大の油絵科から、万に一人でも彼女の様な才能が現れれば無駄でないと思いました。
ポーラミュージアムアネックスのHPでは良くある安っぽい抽象に見えなくもありません。下に載せた絵はそうではないと思いました。
どれを見ても同じと言ったら悪口に聞こえるかもしれません。一枚づつに多少の好き嫌いはありますが、どれも安心して楽しめます。・・・なんて思いながら途中まで来て、一筆で描き切った水墨画の様な水彩を見て初めて気が付きました。あの微妙なトーンとフォルムが一筆で決められています。ペタクリペタクリ筆を捏ねた様な油絵のタッチを見てあの微妙なグレーの違いはカンバスの上で捏ねる様に決められて行くのだろうと勝手に考えていました。慌てて油彩を見直しました。どのグレーも下のカンバス地が見えていて薄塗りです。ペタクリはしていますが、色も形も一発で決めています。
襟や手首の繊細なレースがよく見ると一筆かふた筆の刷毛目で表現されていたりしてその超絶技巧に驚く事がありますが、モランディをそうした目で見た事はありませんでした。
カンバスの上で色や輪郭を捏ねた所が無いとは言いませんが、パレットの上一発で決めた色を使って、迷う事無くフォルムも一発で決めている所が多い。私はペタクリペタクリ何度もカンバスの上で試行錯誤しながら描いて行くのだと思っていました。何十年も勘違いをしていました。
ジョルジョ・モランディ―終わりなき変奏 東京ステーションギャラリーでで4月10日まで。
イタリアに行っても、これだけまとめて見る事は出来ないでしょう。ボッティチェリだけ、カラバッジョだけでも凄いと思うけれど、上野で両方一遍に見られるって言うのも凄いなぁ。恵まれた国だと思いました。フィリッポ・フィリピーノのリッピ親子や、影響を受けたカラバッジョフォロアーの作品が多いのも、ちゃんと意味が分かるし見応えもありました。蕎麦と言いながら小麦粉半分かよとは思いませんでした。ボッティチェリは鼻から手前の顔は描けるけど向こうに回り込む顔が描けない。輪郭の線に頼って平面的な処理で済ましちゃう、日本のアニメや漫画と同じだなんて思ってました。ミケランジェロやボッティチェリって中心人物は凄く描き込むけど後はほとんど素描程度で済ましちゃう絵もありますよね。最後の審判の中心と同じレベルで天井全てを描けって言うのも無理ですけどね。ミケランジェロはシスティーナを自分で描いたようですが、今回のボッティチェリの中でも弟子に任せたと思しき物には輪郭線と平面的な顔の処理がありました。本人が気合を入れたやつは明らかに密度が違います。顔の表面にも大変な書き込みがありました。はるか昔、ウフィツィ美術館で’春’や’ヴィーナスの誕生’を見た時は筆使いをここまで細かく見られなかった気がします。実物が見られて良かった。顔の向こう側には壁なり空なり暗闇なりの反射や写り込みがあって向こうに回り込んで行く訳です。日本の漫画や浮世絵にそれが欠けているからと言って絵の価値が損なわれる訳ではありません。ボッティチェリ展は都美術館で4月3日まで、カラバッジョ展は西洋美術館で6月12日まで。
PS 'カラヴァッジョ'が正解みたいでした。
今年もオートモビル・アート連盟作品展が6/30日まで、市ヶ谷の山脇ギャラリーで開かれています。今年はお上手な物が多いと思いました。見ていて恥ずかしかったり、下品だなと思う物も少ない気がしました。イラストばかりでなく模型も何点かあって、バイクのフルスクラッチ(インディアン)はとても綺麗でした。感心する絵が何点も有りました。
佐原さんや佐藤さんの背景の処理にはバーニー・フュークスに似た所が有る気がします。
2015-06-25 カテゴリー: airplane, automobile, motorcycle, paintings | 個別ページ | コメント (0)
何年か前のザ・チョイス大賞では、松下まりこさんのネリネリの絵の具に感心した覚えが有ります。今年はあんまり面白くなかったと思いました。
今日覗いたのは、理科美術展2015。佐藤忠雄さんのタナゴと七宮賢司さんの魚はとても綺麗でした。
魚の原画はどれもハガキ大で小さい絵でした。
写真機が生まれて、その役を奪われてしまいましたが、見た事も無い南の島の植物やナポレオンの遠征したエジプトの様子を伝えるのは同行したイラストレイターの役目でした。博物学の隆盛や百科全書、啓蒙思想とは、離して考える事が出来ません。
今だって、情報を視覚的に伝える為に、写真よりこうしたイラストが必要な場合はあると思います。寧ろこうした絵こそがイラストレイションの本分だと思います。
山脇ギャラリー で6/3まで。
長い事行方の分からなかった ’自動車のイラストレーション’穂積和夫著 が出て来ました。HOW TO DRAW CARSと書いてあります。非常に分かりやすいハウトゥー本ですが、それ以上に、素晴らしいイラストレーション集になっています。ここに上げたタルボ・ラーゴとブガッティを描いたケン・ダリソンにも随分憧れました。
子供の頃に憧れた物を大人の目で見て落胆する事は良くあることですが、今回に限っては全くの杞憂でした。どのページを見ても感心することしきり、上手いなぁ。
ここ暫くオートモビルアート連盟作品展を見ています。新しい人だって出て来ているのに、松本秀実、穂積和夫、児玉秀雄、細川武志。45年経っても私の好きなイラストレーターの顔ぶれはちっとも変わっていない事が分かりました。児玉さんは上手くなってるなぁ。穂積さんは建物よりメンズファッションや車を描いている方がずっと魅力的だな。
中学生だったと思います。丁度この本を読んでいた頃でした。善福寺川沿いの公園から白山神社の坂を上がった草むらにTR3やナッシュ・メトロポリタン、DUCATIもあったな。他にも何台かが停めてありました。一台のカバーシートをめくってみたらフィンのついたオイルパンにABARTHと有りました。日本グランプリに出たアバルトシムカ1300でした。布基礎では無しに並べた独立基礎の上に建つ縦嵌めの家が、イラストレーター熊沢俊彦の家だと知ったのは暫く後でした。
図版はクリックして大きいのを見て下さい。
2015-05-06 カテゴリー: automobile, books, paintings | 個別ページ | コメント (0)
バーニー・フュークスは、イタリアの街を抜群の技術で描く事で、何を求めるのかと言った辺りに弱みを見せました。(綺麗な観光写真で良いのかと言う事です。)けれど新大陸でのモチーフを描く限り、古い価値の外に有る事が寧ろ強みです。テクニックは抜群です。
画家のなかでも、ため息が出る程絵の上手い人はそう多くはありません。超絶技工やスーパーリアリズムと言われる絵はテクニックや、ここまで描くのかと言った事に感心はさせても、尊敬までは感じない事が良く有ります。テクニックの他に有る種の尊厳が必要なのかも知れません。
二つを兼ね備えて、マネやベラスケスと並べて話をしようなどと思う事は滅多に有る事ではありません。バーニーが上手いと褒めた事で、今年見たもう一つの展覧会を取り上げない訳に行かないと思いました。
3月に原美術館で見たミヒャエル・ボレマンス、これは凄かった。具体的なオブジェクトを描く事でそれとは別の深淵を感じさせる点については、私の側に語る資格がありません。ここではその技術に付いてのみです。例として上の絵の頭髪を上げたいと思います。一本一本描いてある、スゲ〜と言うのは他にも見た事が有ります。彼はほんの何回かの刷毛目だけで見事に表現しています。今までに見た頭髪の中で一番上手いと思いました。
2014-10-13 カテゴリー: paintings | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
全ての絵画の中で、お芸術としての絵画はほんの一部でしか無い。絵画は他に広い価値を持つとは繰り返し述べて来た事です。
イラストレーションの中には、取るに足らない浅薄な物が多いのは、仕方が無い事です。けれど、伝統的な絵画とはまるで違う格好の良さがあって、子供の頃、アメリカの自動車広告を見る度にこうした絵が描きたいと思いました。カーデザインの世界ではジウジアーロや児玉英雄のドゥローイングにも憧れました。
白紙の上に陰を書き込む事で立体感を表現するのではなく、色のついた画面に明るい色で光の当たる所から描き起こすハイライト描法は伝統的な油絵の中でもよく見れば見つかります。リアルな表現はどれだけの手間を掛けた物かと良く見ると一筆の刷毛目だったりして、手際の良さに感心する事は泰西名画の中でもあることです。けれどあからさまに刷毛目を見せる事で格好の良さをアピールする様になったのは、商業的なイラストの発達と関係が深いと思います。
全体に濃い色を荒い刷毛目の残るタッチで施して、光の当たる部分、車で言えばボンネットの上面にボディカラーを載せて行く、更に光沢の強いクロームメッキやガラス面には青い空が映り込んで、エッジにハイライトを入れる。光の当たらないボディの側面と車の陰の部分は下塗り以上に書き込まないので同じ刷毛目が見えています。丁度側面に地面が写り込んでいる様に見えます。今回の展覧会ではケネディの絵がこの描き方です。
緑の芝生に赤い土、青い空に白いユニフォーム、スポーツイラストレイテッド誌などで見かける綺麗なイラストを見ている内、逆光や木漏れ日を輪郭の辺縁をにじませることで表現する人がいる事に気が付きました。あっ又あの人だ上手いなぁと感心していました。バーニー・フュークスの名前を覚えたのは随分後の事です。
これこそ、伝統的な油絵とはまるで違う、イラストレーションの格好良さだと思っていました。だからてっきり、絵の具はリキテックスか何かだと思っていました。紙の上の水彩絵の具を水でにじませても水を紙が吸い込んでしまうのでああしたにじみ跡の輪郭は残りません。日本画風になってしまいます。ああしたにじみ跡を残すのには下地が水分をはじく事が必要です。水彩ボードかジェッソの上に水をはじく何かをして下地を作っているのかと思っていました。
日曜美術館の解説によれば油絵の具をテレピン油でにじませているのだそうです。旧来の油絵とはまるで違う新しい価値の代表には新しい画材であって欲しいとの思い込みは全てはずれでした。何十年かの謎が解けました。
知らなかった事がもうひとつ、イタリアの街を描いた絵が沢山有る事です。これがもう、めちゃくちゃ上手い、上手いけど浅薄で全く価値が無い。レンガ積みのローマの壁やイタリアの陽光がべらぼうなテクニックで表現されています。けれど通俗の極み、観光客の感傷に過ぎないと言えば言い過ぎでしょうか。描かれている物は全てが形而下の問題に過ぎません。デ・キリコの描くイタリアの街には何か別の重い物が有ります。バーニーの絵にはそれがありません。アメリカ人が馬鹿にされる理由が良く判ります。
グランドを全員でランニングする野球選手の絵に惹かれました。近くに寄ったら阪神タイガースの絵でした。そこに形而上の問題は一切含まれていません。難しい理屈も憂鬱も有りません。けれどちっとも浅薄ではありません。ゴルフの絵も野球の絵も一切の重さが有りません。けれどそれは新しい価値であって馬鹿にされる筋合いの物では有りません。古いお芸術の枠の中では実現出来なかった格好の良さです。
旧来の大陸とはまるで違う新大陸の価値が窒息寸前だった世界を救っているのだと思いました。(少し飛躍し過ぎました。もう少し説明を入れて行きたいと思います)
2013-10-06 カテゴリー: paintings | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2013-06-22 カテゴリー: automobile, motorcycle, paintings | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2013-06-22 カテゴリー: paintings, tools | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
流行歌手ふぜいが自らをアーティストと名乗る事に抵抗が有りました。自らの信じる所をひたすらに積み重ねて、万人の価値に至ること。それを成したと自ら名乗る事の厚顔。
ただアメリカ辺りでは言葉の意味というより使い勝手に差が有るのかも知れないと思っていました。
チャールズ・イームズは自らアーティストと名乗るのは恥ずかしい事だと言ってました。同じ様な考えがアメリカにも有る、或は有ったと聞いて少し安心しました。
イームズの仕事の内、私が魅力的だと思う部分の何割かはレイに依る物だとも知りました。ただ何人かに依る仕事の内、どこが誰の仕事だと後年決めつけるのも無理が有ります。レイに依る可能性が高いぐらいの認識に留めるべきでしょう。
私は渋谷のアップリンクという所で見ました。もらった整理券は8番で結局全部でも10人そこそこ。極く親密な空間で見る事が出来ました。この世のイームズに対する関心の大きさと、随分差がある様に思いました。ちょっと不思議な所でした。
随分前に<ミヒャエル ゾーヴァ>の絵が好きだと言いました。勿論お上手なのですが、それ以上に絵の具をネリネリ書き込んだ質感と物語性が魅力でした。
イラストレーション誌のザ・チョイス大賞を見て来ました。負けてないと思いました。如何でしょうか。
上手いなぁー、でもそれ以上にペタクリペタクリ筆を動かした絵の具の具合が素敵です。
神話性というか寓話性も魅力です。松下まりこさんって言うんだ、すっかり感心しちゃいました。どれか一枚といわれたら、これだけど松下さん、他の作品は少し集中力が落ちるのもあるかな、安定した品質という事で言えばアゴエラさんの画力も素晴らしいなぁ。
市ヶ谷の山脇ギャラリーで5月の21日までです。
5/15 今日も仕事の帰りに見て来ました。壁に貼られた作品以外にファイルのポートフォリオにも目を通して欲しいと思います。ボテロと言うよりベラスケス、もっと直接的にフランシス・ベーコンを思わせる作品もあって良いなぁと思いました。評価の高い既存の何かを連想させる事が逆に嫌な事もあるんですけどね。今回は好感を持ちました。私の言葉使いや態度に問題があって伝わらないかも知れませんが、絶賛と受け止めて欲しいと思います。
2013-05-13 カテゴリー: paintings | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
二次大戦後、欧州製のスポーツカーに触れてその楽しさに惹かれるアメリカ人が増えました。中には安くて大馬力のアメリカ製V8エンジンを移植すればもっと速くなると考える人もいました。
英国製のスポーツカーACにフォードのV8エンジンを載せたのがキャロル・シェルビーでした。彼は自分の作ったACコブラを売るだけでなく、欧州のレースにも出場しました。
これは行けるとの手応えと同時に、ル・マンなどの長いストレートでは古くて空気抵抗の多いオープンカーの不利に気が付いて、新しくて空気抵抗の少ないクローズドボディが必要だと考えました。ピート・ブロックのデザインしたクローズドボディを載せたのがデイトナコブラです。デイトナのレースでデビューしたのでこう呼ばれたそうです。
1964年からプロトタイプレース(ワールド・マニファクチャラーズ・チャンピオンシップ)に出場して1965年にはタイトルを獲得しました。
これを見ていたのがエンジンを供給していたフォードです。自分の所の上手く行かないフォードGT40をキャロル・シェルビーに任せる事にしました。キャロル・シェルビーは新しいフォードGT40で手一杯ですから、自らのデイトナコブラプロジェクトは中止です。デイトナコブラを売りに出しますが売れません。
1シーズン・2シーズンを戦ったレースカーは消耗仕切ってしまいます。次のシーズンを戦うのにはお金が掛かります。外は新しいボディをかぶっていますが、中身は古いフロントエンジンのスポーツカーです。レースの世界では既にミッドシップのエンジンが当たり前になりつつありました。古いデイトナコブラにお金を掛ける価値があったかという事でしょう。
二束三文になったデイトナコブラの一台が1966年の日本グランプリにやって来ました。クルマは安くなっても、日本にまで運んで、更にレースに出られる様にするのには、当時で1000万程掛かったそうです。その後も長く日本に留まって沢山のレースに出ました。日本のレースファンには馴染みがあります。けれど一線を退いた型遅れがどさ回りで日本にもやって来たと言う感じがありました。十分な手当を受けていた様にも見えませんでした。
その後、日本にあった一台はキャロル・シェルビーの元に戻って手入れを受けた後、ドイツで暮らしているそうです。
最新型しか価値を持たないレースの世界ですが、古くなったレースカーを個人で楽しむ人が増えました。6台しか作られなかったデイトナコブラは最も高い値段が付く様になりました。日本円で5億とも10億とも言われます。暫くぶりに登場する次のオークションでは10〜15億の値段が付くだろうと言われています。
2012-12-31 カテゴリー: automobile, paintings | 個別ページ | コメント (0)
’ムーミンが住む森の生活’なんて書いてあると、女・子供向けかと足が遠のいてしまう大人がいないかと心配です。そんな事はありません。いい大人にこそのぞいて頂きたい。
宇都宮はちょっと遠いし、美術館が駅から離れているのも辛い所です。鎌倉の近代美術館よりはちょっと遠いけど行けない所じゃありません。騙されたと思ってご覧戴きたい。
ふんぞり返って人を見て、ヘヘーっと人を這いつくばらせるのが建築だとでも考えているのではないか、だとしたら随分嫌な奴だと思っていた岡田新一ですが、彼の設計にしたら意外に軒の低い建物です。個々のデザインに文句の無い訳ではありませんが、世の中の動きや谷口吉生の一連の美術館などには影響される所があったのでしょうか。大きすぎないのも良いし、全体の規模やアプローチの整備には好感がもてました。計画段階で使う側から学芸員の方々が文句を言う機会もあったそうです。そこらも良かったのかも知れません。
フィンランドのデザインだの建築だのと言い出す前に、国土や風景が油絵で示されて、スウェーデンとロシアに挟まれた中でアイデンティティーの核になった神話の説明がありました。この手の前置きは面倒に感じる事も多いのですが、前置き一つ一つが十分に魅力的です。サーリネン(父)にアアルト、カイ・フランクにマリメッコ、後は皆様の期待通りです。
去年秋の目黒美術館・降旗さんや、今度の宇都宮美術館・橋本さん、お仕事に触れて感じる所がありました。あれだけの物を企画して飛び回って交渉して・集めて・見せてそれを責任持って返す事がどんなに大変か。箱ものばかりで中身が無い、ハードばかりでソフトが無いと馬鹿にして来ました。日本の美術館、人もソフトも育ってます。彼女達の仕事を評価するかしないか社会の側が問われていると思いました。
がんばれ日本の学芸員。
お知らせするのが最終日じゃ見に行ってもらう訳にも行来ません。間抜けな事でした。
市ヶ谷の山脇ギャラリーでオートモビル・アート連盟の作品展をやっていました。
力のある大きなバイクは、コーナーでスピードを落としても、コーナーの出口でアクセルをひねれば すぐにスピードを取り戻せます。力の無い小排気量のレーサーは、コーナーで如何にスピードを落とさないかが勝負です。大きなクラスよりコーナースピードが速くて、遥かにスリリングです。そうした緊張感が伝わる絵だと思います。
この絵には随分感心しましたが、一方で他の絵には、自動車にまつわる事ってどうして子供じみているのかなとも思いました。皆さん呆れる程にお上手で、その絵の精緻なことにケチの付けようもありません。けれど他の絵画を見る時とはまるで違う部分が喚起される気がします。(ここに取り上げた3点は子供染みた何かを感じない、どちらかと言えば上品な物を選びました)
お芸術に触れた時の高尚な気持ちだけが尊い訳でもありません。お芸術の他にも好きな事があって一向に悪くないとも思います。
懐かしい名前も見つけました。チンチン電車はサンフランシスコでしょうか、細川武志と書いてあります。随分と書き込んだ絵ですが、絵のうまい下手はむしろ簡単な絵で判る事もあります。小学生の頃買っていたAUTOSPORT誌に毎月簡単なイラストが載っていました。細川武志さんって言うんだ、上手いなぁと、いつも感心していました。もう40何年か前の事なんですね。
2012-06-26 カテゴリー: automobile, motorcycle, paintings | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
映画にはいつも期待しすぎてしまいます。勝手に期待をしすぎて良く落胆もします。逆に全く期待していなかった映画が良いと舞い上がってしまいます。
何が上映中かも知らずに寄ったギンレイホール、4時過ぎに行ったら次の上映は4時20分からです。2本の内1本はまだ見ていないウディアレンでした。これは丁度良い、今日は2本を見て行きましょう。
ウディアレンの1本は、最近見たマッチポイントやバルセロナに比べても特別に良い出来だとは思いませんでした。良く出来てはいるけれど、アニーホールやマンハッタンの様にぐっと来る訳でもありません。名前も忘れてしまいました。
全く知らなかったもう一本 ’17歳の肖像’ 。全く期待していなかったものだから不意打ちを食ってしまいました。女の子の退屈な毎日、そこから見た事も無い大人の世界へと連れて行ってくれる男、そして初めてのセックスとどこかにありそうな話です。林真理子の書いた本もあった気がします。(ストーリー自体は通俗の極みだとケチもつけられます)
男の子が色々な経験をして大人になって行く映画は山の様にあります。大体は初めてのセックスの話でしょう。どれも同じありふれたと言えるものです。けれど傑作がいくつもあった気がします。
どんなにありふれた話も素敵な映画になる可能性があって、どんなに特別な話もつまらない映画になる可能性があります。
訳の分らぬ邦題で損をしている様に思います。原題はAN EDUCATION、この題でこそ映画の意味があると言うものです。まず堅苦しい学校教育があって、それとはまるで違う大人の世界を教育されて、退屈な学校教育を全て否定します。けれど古くさい教養の中の大事なものに気が付いて行く。こういう事なんだと思います。男の私にも十分以上に素敵な女の子映画。全ての女の子と、女の子だった人に是非、お勧めしたいと思います。
PS
あんな間抜けなフランスかぶれは日本だけかと思っていました。
篤姫の人気は日本だけだと思いますが、宮崎あおいは向こうに行っても人気が出るかも知れません。
ロシアのメドベージェフはこの映画の男と似た所がないでしょうか。スタイルカウンシルのミックタルボットも似て見えます。オールバックにしている時には気が付きませんでした。俳優の伊勢谷友介は前髪を下ろすとポールウェラーに似てない事も無い。・・・・役に立たない連想が止まらなくなってしまいました。
ラファエル前派って人気あるんですよね。あれを良い趣味や教養の例にあげるのはどんなものかなんて言ったらイギリス人は怒るかなぁ。イギリス人には一度言ってやりたいと思っていました。絵は良く描けています。でも心根が日本の少女漫画や竹久夢二と同じセンチメントだと。風俗として取り上げるべきものであってファインアートとして取り上げるのは如何なものか。・・・・愛する音楽と絵画の中で自国産はエルガーとターナーとこれぐらいだとすればケチをつけるのも可哀想でしょうか。
ブリストルにナルニア。イギリス人は61年当時の誇りや心の支えを随分失ったのかも知れません。一緒に見たもう一本もロンドンの話でした。ジャガーを自慢していましたが普段乗っているのは日産とトヨタでした。暫くすると韓国製と中国製になるのでしょうか。中国の前で霞んでいく日本人が更に揚げ足を取る様な事は止めておきます。映画の中、61年のイギリスはとっても素敵です。
2010-08-20 カテゴリー: automobile, books, motion picture, music, paintings | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
一つ前の年賀状の言い訳についてです。何故あんな気持ちを起こしたのか、結果としての素人細工からは、きっかけになった楽しさを推し量るのは困難です。
みすぼらしい結果になってはしまいましたが、私が感じた何かを本物からは感じて頂けるかも知れません。
最初の2枚が去年展覧会で見たミヒャエル・ゾーヴァです。
昔から好きなモランディやオルデンバーグも影響がある様に思います。あぁ本物はどれも素敵だなぁ。
こうした影響を受けてどうしてあんな結果になるのか残念ではあります。
でも一時、懸命に絵を描いて汗を流した様な気はしました。
コメントにも書きましたが、プロ野球だけに価値がある訳じゃない。恥ずかしい事ではありますが、自分でやる草野球にだって意味がある。
また、言い訳になってしまいました。
2010-01-04 カテゴリー: paintings | 個別ページ | コメント (6) | トラックバック (0)
今年も年賀状を作らなければとは、思いながら、何を書けば良いのか判りません。たまたまデスクトップにあった、届いたばかりの瀬戸物、身近な静物の写真、何枚かの切り貼りをフォトショップ上で始めてしまいました。速く年賀状を描かなきゃいけないのに、忙しい時に限って掃除を始めてしまうのに似ている気がします。去年(2009年)ミヒャエル・ゾーヴァの展覧会を見てからずーっと胸の内に溜まっていたのは、サラサラとでは無く、何かをネリネリと描き込んで見たいという理屈にならない気持ちです。写真の切り貼りをお手本にクレヨンで描き出したのは良いのですが、クレヨンでは小さな所が描き込めません。又フォトショップ上に戻してマウスで更に描き込みました。久し振りに集中して絵を描いて溜まっていた何かを吹き飛ばす事が出来ました。でも年賀状はどうしましょう。
長い言い訳でした。
あけましておめでとうございます。
2010-01-01 カテゴリー: paintings, 言葉 | 個別ページ | コメント (4) | トラックバック (0)
絵画という集合は、芸術なんていう集合より本来ずっと大きい。という話は前にもした事がありました。
神事や祭事との関係を言われる岩絵から始まって、宗教から開放されたのはほんの何百年か前です。芸術としての絵画などと言う考えは極く最近のモノです。現在は商業主義に組み込まれてしまったイラストレーションも、写真の無かった頃は学術的な記録という色合いの濃いものでした。啓蒙主義や百科全書が、更には世界全てを採集して分類しようという考えが背景にありました。
ある歳になると女の子は絵を描かせても少女漫画じみたモノしか描けなくなります。
(少女漫画の無い日本以外の女の子はどんな絵を描くのか見てみたいと思っていたのですが、世界中に日本マンガのばらまかれた今ではその検証も出来なくなってしまいました)
何故、こんな話を始めたのか。人間が絵を描くのにはそれぞれの状況や背景があります。安易な前例によらず、何からも影響されない自発的な絵などというモノがあるのだろうかと思っていました。
神事や宗教、芸術や学術記録、商業主義や漫画、あらゆる影響から離れたニュートラルな絵があるとすればどんなモノだろう。
(ポンペイの絵なんて、今と同じ世俗主義や商業主義に既に染まっている気もします。)
大袈裟な話の後で、この絵を持ち出すのは拍子抜けかも知れません。
幾多のしがらみから抜けて、誰かからの影響やありきたりを排除してなどと言うと、とんでもない前衛か蒸留水のような無味乾燥なモノにもなりそうです。
けれど細心の注意で雑味を排除しながら、こんなに身近な所にこんな絵がなりたっていた。・・・・・・やっぱり大袈裟すぎますか?
同じ様に前から思っていることですが、小さな男の子から私の様ないい歳まで男には乗り物好きが多くて、それぞれが絵を描く機会もあるだろうに、上手な乗り物のイラストはあっても、上手な乗り物の”絵”を中々見る事が無い。
それからどうしてでしょうか,乗り物の絵って下品になりやすいんです。
上手でしかも上品な乗り物の絵は本当に少ないと思います。
どんなに書き込まれた絵でも、たいていどこかに不足や落ち、失敗や描き過ぎ、破綻があって、完璧な絵なんてなかなかある物ではありません。
簡潔ではあるけれど、どこにも失敗が見えない。毎回工夫を凝らした構図も完璧です。
今回はイノウエさんの御陰で原画を間近に見る事が出来ました。切り貼りやブラシュワーク、印刷では判らない事も多いと思います。大いに感心しました。
輪郭線の中の色を、同じ版画で埋めて行く多色摺りが大変だった所為だと思います。色紙に摺って切り貼りしたり、手で書き込んだり、色々な手が重なっています。プリンティングとも言い切れません。ペインティングでも無いでしょう。英語だと何て言うんでしょうか。ピクチャーってどんな意味だろう?
(日本には季節や色に使い分ける言葉が多いという自慢を聞いたことがあります。けれど慣れない他所の言葉は単数形や複数形、女性名詞や男性名詞の使い分けが面倒です。ブログのカテゴリー名をペインティングにしたばかりに困っています)
ギャラリーに置いてあったポートフォリオで過去の作品を見ても、昔の木版だけのシリーズより、この”でんしゃ”の方が格段に楽しい。
最近では四谷駅の断面図も素晴らしい。
本当に小さな展覧会ですが、今の所今年のベストかな。
どうってことも無い絵本の絵に、なんだってこんなに持って回った大袈裟な物言いをするのか、読む気も起きない。
御もっともです。済みません。
先日はクライアントにも似た事を言われました。私にとって大事な事は大体において迷惑でしかない様です。
2009-09-30 カテゴリー: paintings | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
バイクの修理の話なのですが、カテゴリーをmotorcycleとすべきか、maintenanceとするべきか迷いました。
塗料の話なので、ペインティングにして見ました。絵の話じゃないし、場違いではあります。
事故で壊したバイクを半年してから回収しました。松葉杖がとれて少しだけしゃがめる様になった頃、何箇所か手を入れてみました。
寝ている間に狙いを付けた所に手を入れてもウンともスンとも言いません。
バラしたままにしておけるガレージがあればいいのですが、軒の下では暗くなる前に片付けなくてはなりません。
大きな所は諦めて手の届く小さな所から始めます。細かい部品から集めています。つぶれたメーターカバーを二組ネットで見つけました。
本来クロームメッキだったはずですが、手に入れたカバーはどれも黒に塗ってあります。メッキの上に素人が塗ったのだと思っていたのですが錆を落としてもメッキ層が見えません。メッキでなしに黒に塗られて出荷した物もあったのでしょうか。
錆が深くてバフを掛けてメッキに出しても綺麗に成りそうにありません。
困っていた所に見つけたのがこのスプレイ、これならパテとプライマーで綺麗な下地がつくれます。
出来上がりも、よく見ればメッキでない事は分かってしまいますが、遠目にはそこそこ金属質の光沢に見えない事もありません。
塗るのが難しくてある程度量を塗らないとスプレイのブツブツが残ってしまいます。塗りすぎるとすぐに垂れます。
塗幕が弱い様です。一週間経ってから指で擦ったら跡が付いてしまいました。
使い方には少し工夫が必要です。良い物を見つけたと思ったのですが、まだお薦めはしかねる様です。
PS
擦ったら跡が付いたのは、乾くのに時間が掛かる、一週刊でも乾いていなかったと言う事の様です。只塗膜が弱いのも事実です。ワックスを掛けたら曇ってしまいました。ようやく乾いたら厚く塗った所にしわが寄って、縮み塗装の様になりました。結構難しいなと思いました。2009-03-20 カテゴリー: paintings | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
昭和の初期には、日本郵船の鹿島丸,浅間丸といった欧州航路や太平洋航路がどれだけ花形だったか、まだJALが花形だった頃に聞かされました。
アースダイビングで何度かご一緒した小野寺さんのONE DAYを拝見していたら小野寺さんのひいおじいさんは鹿島丸の船長だったと聞いてびっくりしました。
それは凄い大変だなどとコメントを入れました。やりとりをしている内に父親の香港時代の写真に興味を持って頂きました。お越し頂いて誰も聞いてくれない昔話に付き合って頂きました。90になる父は暮れには2階のベッドを1階の居間に下ろそうかなどと気弱な事も言っていたのですが、お正月の吉野さんご一家、小野寺さんと来訪が続いて、何よりお客さんに来てもらえる事が嬉しい、1階の居間は空けておこうと気が変ったようです。わざわざのお越しに心から感謝します。
小野寺さんのHPではお仕事も拝見していたのですが、持って来て頂いたご自身のポートフォリオが大変に魅力的だと申し上げた所、後から送って頂きました。
ペインティングというよりはドゥローイングに当たるのかとも思います。使い分ける事が面倒です。単数形と複数形を使い分けるとか,男性名詞と女性名詞とかも面倒そうです。先日テレビでは肉食文化の英語では動物の群れを動物の種類によって全て言い分けると言ってました。何もかも一緒で区別しない日本語は1・2・3・沢山・とっても沢山と言ったいい加減な言語文化に思われるのかも知れません。一方で季節や色を色々に使い分ける日本語が無駄に面倒に思える事もありそうです。
2009-02-08 カテゴリー: paintings | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
家電やオーディオもすたれて、コンピュターに。
今はアニメーションのフィギュアとコスプレの店だらけ、秋葉原も随分変わりました。
ゲームにもアニメにも、メイド喫茶にも、興味が持てない私にとって、駅前にいるメイド喫茶の呼び込みやオタク達は毎日見てもこの世のものと思えない所があります。
更にはそれを目当てに来ている外国人の多いこと。
秋葉原の駅前も氷山の一角に過ぎません。今や世界中に日本アニメのファンがいて、中国でもフランスでも、セーラームーンのコスプレをやっているなんて聞くと、ホントカヨ、何か頭が痛くなる様な気がします。
お茶や能を自慢しても分かった振りをしてくれるのは、’私はインテリです。’というポーズに過ぎません。
浮世絵にカラオケ、漫画、本当に喜ばれるのはもっと身近な物なのでしょう。
でも、世界を制覇した日本のアニメ、ジャパン イズ クール、本当でしょうか。
自動化にも色々な手段があって、必ずしもロボットである必要は無いはずです。
人型ロボットでないと気が済まないのは日本人、ロボット先進国日本、これもどうなんだろう。
どちらも日本に手塚治虫あってのこと。その存在、影響力の大きさは時間が立つ程増しています。
功績の大きさを讃えることに勿論異議はありません。
本来アニメーションは手間と時間、お金の掛かる贅沢な物でした。ディズニーは膨大な投資を映画という形で回収していました。その価値を社会に認めさせていた訳です。
ひるがえって手塚治虫。
テレビ局からの過酷な要求に一秒あたりのコマ数を減らし、制作側の熱意だけをたよりに徒弟制、女工哀史以下の労働環境を作り上げました。本人一人が漫画を書くのに没頭するのは美談かも知れません。
けれど沢山の人数を使って大きな物を作ろうと言う人間には別の責任があるのではないでしょうか。(日本の建築、設計事務所に良く似た話です)
コマ数を減らして質を落とし、社員下請けを搾取することでしか成り立たない日本アニメを作り上げた最大の功労者が彼ではないでしょうか。
日本のアニメが世界を席巻した理由はそのクオリティではなく、その値段だったのではないでしょうか。
世界中の誰も自分の首を絞めてまでアニメを作ろうとは思わなかった、それだけではないでしょうか。
こうした訳で日本アニメについて手放しの礼賛にちょっと躊躇します。
絵画を芸術という集合のある部分だとする事もできますが、本来絵画という集合は芸術と言う集合より大きくて、芸術的な価値などと言う物より絵画的な価値はずっと広範な物だと思います。
暫く前に大友克洋の’スチームボーイ’を見て驚きましたが、どうコメントしたものか困っていました。今回もうひとつ’鉄コン筋クリート’を見て良く分かりました。
映画としての善し悪しについては賛否両論があるでしょう。絵が芸術的価値を持つかどうかもわかりません。ただあのクオリティであの密度、とんでもない作業量で一時間半なり二時間、画面を埋め尽くすことがどんなに大変なことか誰も触れないのは何故でしょう。これはとんでもない事だと思います。こんな事は日本以外のどこでも未来永劫に出来ないのじゃないか、今、日本のアニメはもの凄いところに来ていると思いました。先程挙げた躊躇のほとんどが吹っ飛びました。
ただ3DCGが当たり前に成って行くだろうアニメに、絵の上手い下手や手数で立ち向かおうと言うのは、ジェット戦闘機の時代に零戦の性能向上ばかりを考えたり、イージス艦の時代に大和を作ろうというのに似ている気がします。大丈夫でしょうか。
2008-02-13 カテゴリー: motion picture, paintings | 個別ページ | コメント (5) | トラックバック (1)
大学の時に、デザイン科の友人が共通彫塑の課題で自分の足を彫っていた。
筋張ったり、くびれた所の一切無いコッペパンかブヨブヨの明太子のような作品を見て、内心こいつはとんでもなく下手なのかと思った。
後で彼の足を見せてもらって驚いた。まさに彼の彫った足と同じ形をしていた。
なんでこんな話を思い出したのかと言えば、子供の時には、ベラスケスの絵を見て、王女様は女の子というよりは小人のようで不自然だし、王様はあんなにあごの長いはずが無い。王子様の馬はビア樽みたいだと思った。もしかしてベラスケスって下手なんじゃないのとまで思っていた。
小さな頃は、展覧会に連れて行ってもらう度に、レンブラントやデューラー、ミケランジェロ、色々な画家に憧れた。特にドラクロアの展覧会を見た後は、暫く真似をして馬の絵ばかり描いていた。
さすがに、大きくなってからは、絵の楽しみ方にも幅が出て来る。
世界の歴史の中には多種多様な画家がいて、それぞれが興味深い。どれが一番などとは考えたこともなかった。
けれど、ここ10年程でひとつはっきりしてきた。好きな画家は山程いるけれど、誰になりたいかと問われれば、ベラスケスかマネになりたい。あんな絵を描けるようになりたいと思っていた。
プラド美術館展、平日の空いてそうな時間をねらって都美館まで行って来た。
じじいばばあだらけだ。世の中には真昼にこんな所に来られる暇人が私の他にもこんなにいるのか。
日本が平和で本当に良かった。
行ってみたら、お目当ての他にも興味深い絵が沢山あった。好きな名前ばかり追いかけていたら見逃していただろう。
ルーベンスには昔から、まるで興味が無かったのだけれど、実物を見ると、やはり一頭他を抜けた存在であることが良く分かった。
みんな同じ顔に見えるエルグレコの顔は、その前のティツィアーノに繋がっているようにも見えた。
勿論、あちらには良くある顔なのかも知れない。
ブーシェが今時のイラストのようで私好みだとは今まで気が付かなかった。
お目当てのエル プリモ。
穏やかだけど明晰で、全く派手な所など無い絵なのに、そこだけ画面が輝いているようだ、まったく素晴らしい。
あんな絵が描けたら、どんなに素敵だろう。
2006-06-02 カテゴリー: paintings | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
こちらは本物。名画を大きくしてゆっくりと鑑賞して欲しい。私のいたずら書き(フェルメールの模写)を載せたお陰で玉井さんから映画を教えてもらった。真珠の耳飾りの少女を題材にした映画がギンレイホールで10/22まで上映中だ。
話自体は’主人とメード’や’嫉妬’といったありふれたものだ。あの静かな絵にこんな下世話な話を持ち込まなくても良いのにとは思ったけれど、映画の出来は話の筋ほど安直ではない。構図と光の構成が素晴らしい。全編と言うわけではないけれど何分かに一度、画面の美しさに息を呑む。フェルメールのファンなら見覚えのあるものが一杯出てくる(テーブルクロスから壁掛け、コスチュームまで)。もっと凄いのは、なんというか、性的な衝動というか、エロスってやつかも知れない。少女と恋人とのセックスシーンもほんの少しあるけれど、凄いのは、そこじゃない。フィジカルな性行動一切無しで少女の顔や耳のアップで息が止まりそうになった。一緒に見たもう一本と好対照だ。もう一本の’SwimmingPool'も良く出来た映画だった。金髪の若い女性が本当に惜しげもなく裸になってくれる。(生まれてこのかた一番正確に’惜しげもなく’という言葉を使った気がする)それはそれで大変に結構だけれども、息を呑むようなことは起きない。
最後の大クローズアップも凄い、私も随分書き込んだつもりだったが世界が違う。(当たり前か)言い訳をさせてもらえば雑誌の小さなグラビアページからでなくこのくらい大きな元絵を使いたかった。カラーバランスも随分違う。
パンフレットの粗筋の中で彼女がアトリエのガラスを掃除したことでフェルメールは創作への意欲をかき立てられるとの説明があるけれど、これは違う。ガラスが奇麗になると描いている絵の光が変わってしまうことに気が付く主人公と妻との違いが問題なのだ。
真珠・・・の少女役はスカーレット ヨハンソン、ロストイントランスレーションも是非みなくちゃ。
2004-10-14 カテゴリー: motion picture, paintings | 個別ページ | コメント (5) | トラックバック (0)