未だに何の責任も無い人が住んでいた場所を追われて、苦労をしている中、東電が責任を取らない事に、どこが法治国家なのかとの憤りを抑える事が出来ませんでした。今日の国と東電の責任を認めた判決に当然だと思いながら、上の裁判では覆されるのかと思うと、喜べません。国と東電が津波を予想する事が出来なかったとするならば、これからの原発にも責任を取れない事になります。予想できたのにしなかった。これからは責任を取りますと言わない限りこれからの原発を許せない事になると思うのは私だけでしょうか。
未だに何の責任も無い人が住んでいた場所を追われて、苦労をしている中、東電が責任を取らない事に、どこが法治国家なのかとの憤りを抑える事が出来ませんでした。今日の国と東電の責任を認めた判決に当然だと思いながら、上の裁判では覆されるのかと思うと、喜べません。国と東電が津波を予想する事が出来なかったとするならば、これからの原発にも責任を取れない事になります。予想できたのにしなかった。これからは責任を取りますと言わない限りこれからの原発を許せない事になると思うのは私だけでしょうか。
トランプ氏の言う、’日独韓を守る為の駐留なんて止めてしまえ、ボデイガードが欲しければ金を払え’は順番に間違えがあります。日独各々の戦力を抑制する為にアメリカが始めた事です。目的も間違えています。冷戦では日独韓が東側との最前線になりました。その後も、広大なユーラシアの両端に足場があれば、太洋を超えてアメリカから出て行くのに比べて速い展開が可能です。米国本土と合わせて地球を3か所から睨む事ができます。地球のどこで何があっても、急行できます。その為の拠点が欲しくて沖縄にいます、日本を守る為ではありません。
ただこうした事はアメリカが世界に関与したいとの動機を持った時に初めて必要になるものです。建国以来アメリカは列強の世界分割に遅れて自分もおこぼれに預かりたいとの野心と、大西洋と太平洋とに囲まれて一切の脅威に晒されない、石油は出るし、食べ物にも困らない、他所に出て行って自国民が死ぬのなんてまっぴらと考えるモンロー主義との二極を行き来してきた国です。二次大戦でも渋る国民に参戦を促すプロパガンダが必要でした。真珠湾は願ったりだったと思います。世界中に出しゃばる一方で、他所の世界に関わりたくないのも本心と言えるでしょう。
ヒットラーに扇動されたドイツ人、神国日本が負けるはずはないと根拠もなく浮かれた日本人だけが馬鹿なのでしょうか。いやいやアメリカにだって面倒な話は大嫌い、簡単な話の大好きなDQNが沢山います。トランプ氏の間違いと言うよりは難しい話の嫌いなアメリカ人の本音と受けとるべきでしょう。
ひるがえって日本です、アメリカへの服従はいやだ、自前の国防を考えたいとの保守にも、米軍の沖縄駐留に反対の左翼にも好都合の筈ですが、賛成の声を聞きません。私はここでトランプに賛成するのも悪くないと思います。アメリカがどこか他所の紛争に飛び出していく為、欲しいと言うから貸してやってる事をはっきりさせるべきでしょう。外務省や岡崎某の様な追従以外に何のヴィジョンも持たない従米ポチが慌てるのは仕方ありません。
本音で言えば、たとえ目的が日本を守る為でなくても米軍のいる限り中国が沖縄に手が出せないのも事実です。守って欲しい日本と、足場の必要なアメリカ。先に本音を吐くのはどちらでしょうか。今の日本には諸国民の正義に頼って生き抜く為の戦略も外交も、降りかかった火の粉を払う戦力もありません。時間が必要です。アメリカだっていきなり明日全て撤退なんて出来ません。軍には軍の都合があります。アメリカにも時間が必要です。落とし所がどこかは判りません。一つだけ明らかなのは、日本がいてちょうだいと頼む前にアメリカに足場が欲しいと言わせるタイミングを計る必要があるでしょう。
アメリカでも世界に野心を持つ、お勉強をした人達(エスタブリッシュメントと呼ぶのでしょうか)はDQNとは別の本心を持っています。今まで日本に恩を売るため、沖縄に居るのは日本を守る為では無い、アメリカの都合だと本音を出すのは憚られました。エスタブリッシュメントと軍はアメリカ国内でも、難しい話の嫌いな人達にアメリカ自身の都合だと説明せざるを得なくなる可能性も出てきました。この点においてのみ、好機と考える事も出来ます。
ゆくゆくは駐留を無くしたい、ただ今すぐ全てを無くす事には無理も有ります。暫時そうした体勢を作っていく間、日本の為にいるのか、アメリカの都合でいるのかは事態を左右します。
昔はアンプの下にもプレイヤーの下にもゴムの足が付いていました。置き台との振動の伝播をたち切る為、ターンテーブルを箱からバネで浮かす物もありました。完全な平面ではない床や棚の上にスピーカーを置いてもガタが出来る物です。直接置けば傷も付きます。スピーカーを買うと底に貼れとフェルトの足が付いて来たりしました。こうしたゴムやフェルトの足をインシュレーターと呼ぶのは間違いじゃ無いと思います。
何時からか、スパイクで分布荷重を集中荷重にして作用点を明確にしたり、明確にした作用点から柔らかい物を排除することが良い音に繋がるとの意見が増えて来ました。力の逃げる材料を排除して、剛性の高い材料をブロックやスパイク等の足に使うのは、伝わる力のロスを無くしたいと言う事だとすれば、この足をインシュレーターと呼ぶのは如何な物でしょうか。
インシュレーションとは熱や音、振動の絶縁あるいは減衰を意味します。力の伝達を明確にする物だとすれば絶縁、減衰とは逆の意味になります。建築では断熱や遮音の為のグラスウールをインシュレーションと呼びます。インシュレーターなら絶縁器あるいは減衰器となるはずです。こうした意味を無視して機器の足全てをインシュレーターと言い換えてしまった事に混乱の元があります。
前からおかしいと思っていたのですが、英語を使う国ではこうした足をどう呼ぶのかが判りませんでした。
エキップメントサポート、こうした例を見つけました。機器から置く場所への垂直荷重をロス無く繋げるためのスパイクやブロックをインシュレーターと呼ぶ例が英語を使う国であるのかどうか、ご存知の方がいらっしゃったら教えて頂けないでしょうか。
もし大地の剛性が高くて一切の振動の無いものであれば、大地とリジットに繋ぐのも意味がありそうです。実際には車が通る度に揺れています。浮かす様な支持が良いのか、直に繋ぐ事が良いのかはここでは触れません。色々な条件で事態が変わる事を無視して一方を選ぶ事に無理があると思うからです。ここでは英語を使う国での事情を無視して日本国内の事情だけでデタラメな片仮名を使う事の可否を問いたいと思います。
安室奈美恵の真似をする人をアムラーと呼ぶ事がありました。これは他所では通じない日本語なのだとの理解があれば間違いだと思いません。私の意向とは別に、常に新しい言葉で日本語は変化して行きます。けれどゴスペラーズと自ら名乗るのは許せません。グループ名として日本で名乗るのも腹が立ちますが、アメリカに出かけて名乗った時には死んで欲しいと思いました。ゴスペルってどういう物か自分たちの歌とどう違うのか気がついていたら、少しでもゴスペルって音楽に敬意があったら、裸足で逃げ出して二度と現れて欲しくありません。ゴスペルってゴッドスペルの詰まった物だそうです。
クラブマンって名前のオートバイ雑誌がありました。メーカーの作ったバイクをそのまま売るのでは無く、店が手を入れたものを売ったり。お客の持ち込んだバイクに手を入れる’カスタム’を売りにする店や人をカスタマーと呼んでいました。英語だとカスタマーってお客さんの事になると思います。私たち英語を良く知らない、英語を母国語としない人間が怪しげな片仮名を使うのにはもう少し遠慮があっても良い気がします。
2016-05-02 カテゴリー: AUDIO, motorcycle, 言葉 | 個別ページ | コメント (0)
戦後、英国のスポーツカーについての動画です。
私が車に乗った時の感想を伝えようとすると、つい昔のカーグラフィックの言い回しを思いついてしまう事があります。恥ずかしいので別の言葉に慌てて変えます。そのカーグラフィックと言うよりは小林彰太郎の言い回しの多くが英国の自動車誌、もしくはイギリスの自動車世界特有の言い回しの直訳なのだと思いました。
英語は半分も解らないのですが、所々で昔のカーグラフィックの記事の言い回しを思い出しました。
MGAのDOHCはプロトタイプやレーサーなどの特例なのだと思っていました。市販されてたんだ。知りませんでした。街でアストンマーチンなんて見た事はありませんでした。Eタイプだって伊勢丹地下の赤絨毯の上でしか見た事はありません。今のフェラーリよりずっと希少でした。街で見かける英国製スポーツカーってMGAぐらいだったんです。でもちょっと馬鹿にしすぎてたなぁ。MGがモーリスガレージを意味するなんて言う事も思い出したのは何十年ぶりです。
2016-02-21 カテゴリー: automobile, 言葉 | 個別ページ | コメント (0)
茶道をしている人にお願いが有ります。日本人にとっての茶道を是非大事にして下さい。同時に他所の国にもお茶の作法と文化があってかけがえの無い物だと知って下さい。
不用意に茶聖利休などと言わないで下さい。中国には長い歴史が有ります。茶聖と言ったら陸羽が先です。韓国にもかっぱエビせんにそっくりな物が有るそうです。韓国の人に自慢されたら日本人はどう感じるでしょうか。
陸羽を知らずに利休を茶聖と呼ぶのはもの知らずだし、知っていて呼ぶのは恥知らずです。
そもそも、’りくう’の存在を知っていて’りきゅう’と名乗る物でしょうか。陸羽と利休がほとんど同じ音になるとは大部分の中国人には想像もしない事かも知れません。だけど日本語を知っている中国人の前で茶聖利休と言うのは相当に恥ずかしいことだと思うのは私だけでしょうか。
2015-03-08 カテゴリー: foods, 言葉 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
ジャーナリズムに対する不信と書きかけて、聞いた様な言葉を無責任に並べるのは拙いと思いました。報道・マスメディアに対する軽蔑と書き直します。ジャーナリズムという言葉が、報道という言葉とどう違うのかが私に説明出来ない事、疑っていると言うよりはっきりバカにしている事、この二つが理由です。
新聞に対する不信を最初に感じたのは、男の子が大好きな自動車に対して、私有財産たる車は公共交通に対する悪であるかのような偏見を朝日新聞の中に感じた時です。増してモータースポーツに対しては悪意さえ感じました。不信がはっきりと軽蔑に変わったのは外務省機密漏洩事件です。この名前でも明らかな様に問題が機密の漏洩や情事の有無にすり替えられています。本来は沖縄返還に際してアメリカと裏取引をした政府の問題だったはずです。この時の政府の御都合次第、事の本質をすり替えてしまう情けなさに唖然としました。小沢一郎の肩を持つ気はありませんが、昨今の報道が、小沢との権力闘争にさらされた官僚の抵抗に踊らされた物だということは十分に考えられます。
ずっと朝日新聞を読んでいましたが、家を出て自分で部屋を借りる様になって、朝日と読売を交互に取る事で洗剤が貰えることに気が付きました。読み比べてみると、基本的な立場の違いはありますが、左右に分けて考えるだけでは済まない事が増えていると思いました。保守と呼ばれる人達は基本的に環境の問題に関して積極的では無い事が多いと思います。(その論拠はせいぜい武田邦彦などです。品格の藤原正彦も同じ都立西高だそうです。校風なのかな)けれど環境の問題に対して読売は予想外に熱心でした。新聞のどれも信じられるものではありませんが、それぞれにすこしづつ違いはあって、読み比べると意外に思う事があります。昔ながらの左右では読み解けないことがいくつも起きている事があって、意外に大きな違いはない新聞ですが、拾って読んだ産經新聞だけはもうまるで違っていました。全てを昔ながらの右と左の問題として取り上げています。戦後政治の否定から更に国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三点をはっきり否定していました。これは面白い、他にも色々読んで見たいと思っていたら、毎日の拡販にやって来ました。そもそもの外務省機密漏洩事件は毎日新聞でしたね。読んでみると朝日とも又違う判断があって楽しみです。
2010-03-15 カテゴリー: 言葉 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
今年も年賀状を作らなければとは、思いながら、何を書けば良いのか判りません。たまたまデスクトップにあった、届いたばかりの瀬戸物、身近な静物の写真、何枚かの切り貼りをフォトショップ上で始めてしまいました。速く年賀状を描かなきゃいけないのに、忙しい時に限って掃除を始めてしまうのに似ている気がします。去年(2009年)ミヒャエル・ゾーヴァの展覧会を見てからずーっと胸の内に溜まっていたのは、サラサラとでは無く、何かをネリネリと描き込んで見たいという理屈にならない気持ちです。写真の切り貼りをお手本にクレヨンで描き出したのは良いのですが、クレヨンでは小さな所が描き込めません。又フォトショップ上に戻してマウスで更に描き込みました。久し振りに集中して絵を描いて溜まっていた何かを吹き飛ばす事が出来ました。でも年賀状はどうしましょう。
長い言い訳でした。
あけましておめでとうございます。
2010-01-01 カテゴリー: paintings, 言葉 | 個別ページ | コメント (4) | トラックバック (0)
一日の夜、どこも同じ様な正月特番に飽きて、あちこちのチャンネルを捜していたら、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートでバレンボイムが新年の挨拶をしていました。
中東に平和をとは言いませんでした。良く聞き取れなかったのですが、中東をあるべき姿にと言う様な事を言いました。
これは聞き流してしまうと、彼も同じ様に平和を望んでいる様にも聞こえますが、ユダヤ人の彼は、ひょっとすると私とは逆の事を言っていた可能性があります。
随分と評判の悪いナチスと日本ですが、もう何十年も他所に出て行って人を殺したりはしていません。(又やりたいと手ぐすねを引いてる人もいるようですが)
今時こんな暴挙をイスラエルに許して良い物でしょうか。
その後は映画でヴェニスの商人をやっていました。ここ何年かその演技がトゥーマッチに思えたアル パチーノの臭みが良い方に出ていました。
昔は、肉を取っても良いが血の一滴も流してはならない、なんてタンカに快哉を叫んだりしたのでしょう。
昨日はそうはなりませんでした。逆に嫌な気分になりました。
西欧社会の中、明らかなユダヤ人差別とそこにあるヒエラルキーを前提にした、茶番です。結局、弱い立場の人間からの借金を踏み倒す話に見えました。
根の深い対立に救われない思いがします。原因を作った英米でなしに何故ガザの人達が苦しまなくてはならないのでしょうか。
中国.韓国といった仲の悪い隣人との軋轢も、明日イスラエルの戦車やミサイルが降って来る訳ではありません。不況とは言いながら地球の反対側で穏やかな正月を迎えることの出来た私に、何か出来る事は無いでしょうか。
アラブのテロが原因だとの意見もあるでしょう。無責任なイスラエルの建国に最大の原因がある、更にはそれでも足らずに周囲に拡張占領を続けている事の方が大きいと私は思うのですが。
2009-01-02 カテゴリー: 言葉 | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
この不況は百年に一度だの、ミゾウユウだのと、明るい陽光とは裏腹の不景気なお正月ですが、皆様におかれましては如何お過ごしでしょうか。
今年も年賀状のネタ切れで困りました。ずっと手を付けず一晩でどうにかしようと言うのは無理があります。
万策尽きて牛づくしに逃げるも上手く行きません。牛は原子心母、椅子はウェグナーのOX、雄牛と言えばランボルギーニ、クルマを入れた途端に子供じみて来ました。
クルマってもの凄く強い記号なんですね。単なる形態として認識出来ない。一目見た途端に自分の中の子供じみた部分を強烈に喚起してしまう事が分かりました。ランボルギーニという存在が子供じみているのかも知れません。
少しマシじゃないでしょうか。まだ上手くは無いな。
クリスマスに帰った親の家で牛の絵本を見つけました。今年は絵本からのパクリで逃げます。これで勘弁して下さい。
今年も宜しくお願いします。
2009-01-01 カテゴリー: 言葉 | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
小さい頃、休みになると、母方の田舎に預けられていました。
そこでは、’ヨーサンバの孫’というのが私の身分でした。
ヨーサンバというのは母の家の呼び名です。昔は養蚕をしていたようです。
だれも父方の名字を知らない所為もありますが、お互いに名字を知り合った、村の人達同士でも名字を使うことはまずありませんでした。
限られた社会の中では、ジローやタカシといった名前でほぼ用が足りる様でした。
どこの家のタカシか、といった場合にも名字を使う事はほとんどありません。
カドヤのタカシだったり、シンデンのジローだったり。マンジュウヤ、タタミヤというのもありました。
ヨーサンバと同じようにマンジュウヤが現在の商売を表している訳でもありません。
あれが屋号だったのでしょう。
(はじめて確定申告をする時に屋号と書いてあって、どう書いて良いか分からず困りました)
都会で暮らしていると、人間には姓、名、ふたつが揃って当たり前の様な気がします。
これは極く、最近の話に過ぎません。
つい最近まで大部分の日本人は名字帯刀を許されていませんでした。
江戸時代に名字帯刀を許された武士の割合は人口に対して5パーセントと言われています。
あなたも私も大部分の日本人の名字は明治に入ってあわてて作ったデタラメです。
私の名字はナントカ藩のお侍につながり、ぐらいは可愛いものですが、遡れば清和源氏などと言い出す人は困りものです。ご自慢かも知れませんが大部分の名字はでっち上げです。ご先祖様は4代遡れば16人、5代遡れば32人、端にお殿様がいる事もあるでしょうが、こそ泥だっていて不思議はありません。大部分は百姓か商人だったはずです。
斉藤でなくて、うちは斎藤です。真鍋でなくて眞鍋です。
失礼しました。ちょっとしたことで、人様のご機嫌を損ねてしまいます。
折角付けた苗字を間違えたりすれば御不興を買うのは当然です。
けれど、もう一度だけ言わせて下さい。私たちの名字の大部分はそんなに偉そうなモノじゃないはずです。
2008-03-02 カテゴリー: 言葉 | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
つい最近、50歳だかの男に強姦された16歳の少女が姦通罪で死刑だかになって、男は鞭で叩かれただけ、という話しをネットで見た。インドだったかどうか定かでない。
どこの国だ、ひどい話だと思っていた。
沖縄で14歳の少女が暴行された事件。
何故、強姦を乱暴と言い換えるのだろうか、それで被害者が守られた事になるのだろうか。
加害者の罪をごまかす事になっていないか。
告訴が取り下げられて米兵は釈放されたそうだ。
裁判になって少女の側が世間にさらされる恐ろしさ故のことだろう。
これは少女の側の責任をおもしろおかしく取り上げた週刊新潮などの責任だと思う。
14歳の子供を守る仕組みが何故無いのか、無責任な揚げ足取りをする週刊誌も許せないけれど、それを許す雰囲気がまわりにあるのも事実だ。
食品偽装事件の後、喜んで’赤福’や’白い恋人?’を買いあさるのも信じられない。
デタラメな牛肉を押し付けられて、怒るどころか牛丼に列を作るのも日本人だ。
http://news.livedoor.com/article/detail/3532783/
餃子が食べたい。
けれど、小麦は梅雨のある日本には向かないらしい。日本で農家が米を作ると時給は300円を割ると書いてあった。こうした中で、食料自給率を明日ぽんと上げることが出来ないとすれば、何の用意も無いまま論争を始めてしまっていいのか。
明日から中国の食べ物を一切口にせず,日本は生きていけるのか。
世界中から食料を安く買い集めることが当面の日本の生きる道だとすれば、消費者からの報告を活かす機能も果たせない、日本国内の仕組みも棚にあげたままでいいのか。
自らの非を認める事の無い中国との間で、責任の所在を明らかにする為にはどれだけの用意が必要か。日本向けの食料に毒を入れる事が英雄的行為になりかねない国に食料を依存しているのだ。それが世界からの信用を無くす事に繋がると気付かせるのはオリンピック前の今しか無い。
中国の悪口を言っているだけでは問題の解決にならない。
他所の国の悪口を言っている場合ではない、馬鹿なのは日本人だ。
2008-03-01 カテゴリー: 言葉 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
今日、10月21日のNHKスペシャルについて。
操縦も未熟なままの学徒に、老朽化した戦闘機(九七戦)をあてがっての特攻は、機体の故障が多く、発進する知覧の基地にまで、計画の1/4しか機体が集まらない事もあったようです。出発した後も途中で不時着して戻って来る人が多かったこと。この事実を隠して戦果を強調するため戻ってきたパイロットを隠していた事。出かける時には、片道の燃料しか積まなかったという話は聞いた事がありましたが、機銃も無線も取り外されて、援護の戦闘機も付かず、レーダーで全てを承知していたアメリカ側には飛んで火にいる夏の虫だった事。
知らない事が幾つもありました。
私の父は昭和17年に美術学校を卒業しました。
陸軍に応集して、宇都宮の飛行学校でアカトンボ(複葉の練習機)を卒業した後、
少年飛行兵の教官として南方に行き、現地で終戦を迎えました。
教習機は型遅れの九七戦だったそうです。
九七戦は二枚プロペラ低翼単葉固定脚、ハヤブサの前、陸軍の主力戦闘機でした。
(飛行学校の同期が最新型の三式戦や四式戦に乗っているのが、随分悔しかったようです。
三式戦‘飛燕’に乗った人はほとんど死んでしまったそうです)
同じ陸軍の九七戦、学徒による特攻はひと事には思えません。
現に父の弟は海軍の特攻隊で死にました。
学業もなかばで集められた20そこそこの若い人達に無責任に特攻を強いて、自分はぬけぬけと生き残った上層部、日本の軍隊という仕組み、が許せません。
今も特攻を美化したり、自衛隊を海外に送りたがる奴らが前線に出る事はありません。
特攻で若い人達を送り出した側の個人名まで特定した番組を初めて見ました。
画期的な放送だと思います。
最初はアメリカを驚かせた特攻も、レーダーの発達で意味の無い物になったこと。
沖縄戦では陸軍海軍あわせて1900人の特攻で170の損傷を与えたに過ぎないこと。
軍艦を沈めたのは一隻だけだった事。無意味とは思ったけれど、戦果としてここまで低いものとは思いませんでした。
もう少しアメリカ人の肝を冷やす事もあるのかと思っていました。
華々しい戦果、何十年も昔の情報操作に私自身が影響されているとは思いませんでした。
PS
特攻というキーワードでこのエントリーにアクセスがあるようです。御陰で参考になるいくつかのサイトが覗けました。
許されなかった帰還<
菊水作戦
鳥飼行博研究室<
アメリカ海軍年表
(クロニクルで年代記、クロノメーターで精密な腕時計、クロノロジーで年表か、なるほどね。)
damaged by suicide plane.これかな、これは沢山あるけれど撃沈という訳でも無さそうだ。
沖縄戦での特攻機の数、戦果については非常に特定する事が難しく、テレビ番組からの伝聞だけで、一隻だけなどとするのは避けた方が良いのでしょう。 ただ、米軍艦船の被害に関しては、台風や座礁、お互いの衝突があんなにあるとは思いませんでした。神風がふいたんだ。
2007-10-21 カテゴリー: 言葉 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2007-01-02 カテゴリー: 言葉 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
先日のNHK、エルサレムについての番組はキリスト教、イスラム教、ユダヤ教のどれか一つに偏ることの無い点で、気持ちの良いものだった。
暫く前の南米に関する特集も、自分の裏庭(搾取の対象)としか見られないアメリカからとは違う視点に立っていることで、公平なものだった。
別の局のニュースではチャベスをまるで、ならず者扱いをしていたのとは随分違う。
話が少しそれてしまった。エルサレムの番組の中で、十字軍による聖地奪還の折の4万人の虐殺に触れていた。
血の海が喩えではなく、人の腰まで死体と血でエルサレムは埋め尽くされたらしい。
昔読んだ”アラブから見た十字軍”にも、十字軍について、非常に野蛮で暴力的だったと書いてあった。
(エルサレムの虐殺についても記述があったのかも知れない。)
当時、アラブ社会は一つの強大な国家があるワケではなくて、数多い諸侯が並び立っていた中、イスラム内部の抗争も沢山あったらしい。
ただ、共通の教養と文化の上に成り立つ諸侯間の抗争は、詩のやり取りや宗教上の協議論争の形をとることが多く、必ずしも軍事的な抗争にはならない事が多かったらしい。
まず、美しい教養に満ちた詩で己の大義名分を交換し合う所から始まるのが道理だと思っていたら。
いきなり皆殺しから始める十字軍は文化と教養から最も遠い所にいる野蛮そのものであって、アラブ社会では扱いに困ったらしい。
昔、コピー機のリースを決める時に中々正直な値段を出さずに、別の所が下げるとじゃーうちも下げますなんて言い出すし、呼びもしないのに無駄話をしに来る営業マンたちに腹が立った。
値切るのが当たり前で店先で延々とカナイマヘンナ〜とやっている大阪式もあまり好きではなかった。
内心、それじゃあ、最初の値札は嘘だったのかよと思っていた。
イエスかノーか。武士に二言はない。どちらも格好いいけれど、それだけを振り回すのも大人の社会とは言えないのかも知れない。
ブッシュが十字軍好きなのは良くわかる。
PS
きちんとした手続きの上で成り立つ他所の国の政府を、自分に都合が悪いとみると転覆工作を謀るアメリカも、とんでもない国だ。
じつはチャベスがどんな人間かは分からない。ベネズエラでどう思われているのかも分からない。
けれど、国内で圧政をしているワケでもない、他国を侵略した訳でもない、拉致もミサイルも原爆もしてない国の指導者をならず者扱いする日本のテレビ局は、それでアメリカのご機嫌でも取れると思っているのだろうか。
2006-09-24 カテゴリー: 言葉 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
9/11以来のアメリカの戦いはイスラム世界をも含む世界秩序とテロとの戦いでなければならない。
イスラム社会全てを敵に回す宗教戦争にしてはならない。これを守らなければ世界中からアメリカ一人が憎まれる事になる。
アメリカだって分かってはいることだろう。けれど戦争を始めるのには国内の世論をよほど上手く導かなければならない。
アメリカの外では絶対に使ってならない、クルセーダー(十字軍)という言葉は国内の戦争気分を発揚するのにこれ以上ない効果を持っている。
まずいのは分かってはいるけれど使いたくて仕様がない。
世界の半分、イスラム全てを敵に回しても国内は一気にいい気分で戦争を始められる。
言葉一つで全て溜飲の下がる思いがする。
武士道という言葉にも似た効果がある。
日本とは何か、日本人とはどんな人間か、真面目に考えるには少し大きな問いも、和太鼓を叩いたり、サムライニッポンとおまじないを唱えた途端にいい気持ちになって、解消して仕舞う人があまりに多い。
今とはまるで異なる秩序や価値観の中での武士道を今の世の中で評価しても始まらない。そこには今とはまるで違う理由があったのだから。
そもそも11世紀から19世紀までの永きにわたって一貫した武士道などと言うものがあったのかどうかも疑わしい。
それに比べれば新渡戸稲造のいう武士道は彼のなかでどうしても必要があって出て来たものだ。
彼が日本を出て感じたことは、最後には倫理観を問われるのだ、キリスト教をもとに構築された倫理観に匹敵するものを示さない限り、日本人は野蛮人扱いをされる。多分こういう事だったのだろう。
あくまで彼の言う武士道は、日本の外に対して彼が野蛮人扱いされない為に作られた言い訳に、過ぎない。
彼をおとしめる積もりはない。むしろ最後には世界のどこにいっても、倫理観を問われるのだ、日本人もそれに答えるだけの倫理観を構築しなければならないとの考えには賛成したい。
かれが武士道を持ち出して時間稼ぎをしている間に、自らの倫理観を構築することもなく、今になって、外国に向かっての彼の必死の言い訳をまに受けている様では、彼の意思をついだことにならないのではないか。
手嶋様 倉俣様
お薦めの藤原正彦氏の「国家の品格」を読んで。9/10追記
先日地下鉄の席に置いてあった三流劇画誌を見ていたら、主人公の挑む巨悪の黒幕は親中国派代議士、更には中国の陰謀という設定でした。
加藤紘一氏宅の放火事件と合わせて暗澹たる気持ちになりました。
バカに薬を付けないと明日にでも戦争を始めそうで心配です。
本屋に行くと嫌韓流、渡辺昇一、小林ヨシノリとならんで、藤原正彦氏の本が積まれていました。
結果的には、回りに並べられた本の様に明らかな間違いというよりは、許される範囲の素敵な妄想に留まっているようでした。
上下水道、水洗便所、床暖房、パンとエンターテイメントまで保証された、ローマ市民社会から、文明からはほど遠い、不衛生野蛮の限りの中世を出現させて、
はては帝国主義、膨張主義で全世界に最大の厄災をもたらしたキリスト教とヨーロッパに対する考えは私自身の妄想とも通ずる所があるのかも知れません。
大事なことは英語をしゃべれる事じゃないとの話もにも賛成です。
実を言えば、武士道そのものに恨みがある訳ではありません。高潔を持って旨とすべきだとすれば異論を挟む余地はありません。
駐日仏大使いわくもっとも残って欲しい民族はなんて話も何度か聞いた覚えが有ります。
自らの国に誇りをもつこと、自らを甘やかすためのこうした話も他所で口にすることなく自らの胸中に置いておく限り、そんなに悪い事だと思いません。
明治に訪れた好意的な外国人による日本記、島津藩の兄弟の家庭教師エセルハワードや、古き良き日本についてのラフカディオハーン。私も時々読み返すことで心の支えになることがあります。
ただ、良い気持ちになるばかりで良いのでしょうか。
風呂好きで世界一清潔な日本人?本当でしょうか。世界から日本に来るホームステイの最大の難関は言葉や納豆ではありません。同じ湯を何人もが使うなんて不潔不衛生、信じられない蛮行だと思われています。
高潔な武士道で訓練されたはずの日本軍は兵站(物資の補給)の無計画で、そこいら中で徴収と称して略奪を繰り返しました。
ペリーが来た時にも、武士達を船上に招いて食事をした所、酒が入った途端にぐずぐずになる様にあきれています。口に合うものを何かと無心して皆胸の中にいれて持ち帰ろうすることも記録されています。
明治初期の旅行記では、日本人の手や足のほとんどが垢と疥癬、ひびわれしもやけに覆われていて触られるのもいやだったと書いてありました。
今でこそ、メイドインジャパンは高品質の印ですが、一次大戦時には戦時需要といった漁父の利があったにも関わらず、石ころ入りの缶詰の輸出等で多いに評判を落としました。
これに関して新渡戸稲造は商人は身分の低い、武士からもっとも遠い所にいるものだと逃げています。
社会の構成として武士の割合は江戸で20パーセント、他では5パーセントと書いてありました。
今の日本に商売をする人間はいても武士がいるとは思えません。
計画経済の例をいくつかあげれば、逆に見えざる手に私はまだ期待する所があります。極端にいえば小さな政府ってそういうことじゃないですか?
グローバリズムと市場の原理をやり玉に上げて不具合の説明をすべて押し付けることには抵抗があります。http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0210.html
グローバリズムとインターナショナルスタイルを一緒にして良いかどうかわかりません。
世界中に白くて同じ迷惑な箱をつくったとの批判もわかりますが、人類普遍の価値といった夢を私はまだ少し持っています。モダニズムってそういう事じゃないですか?
2006-08-26 カテゴリー: 言葉 | 個別ページ | コメント (3) | トラックバック (0)
上の画像と出来ればその後の書き込みを見て欲しい。
中国の公害にも困ったものだけれど、もっと気になったたのは日本人の反応の方だ。’まぁひどい、中国の野菜なんて食べられないわね’が結論で良いのだろうか。北朝鮮の惨状を見てひどいわねと言いながら喜んでいるテレビ番組や、暫く前のタイ米の輸入時にタイ米は臭いだのなんだのという話にも、同じようなグロテスクな思い上がりを感じる。
私企業が公害で国民を殺しても、司法も行政も立法も何も出来ないどころか、企業のお先棒を担いだ情けない国はどこだったのか。高い浄化装置がいやで夜陰に乗じて廃液を垂れ流す企業が今の日本にはないのか。虫食いひとつを許さない消費者の為に農薬を使わざるを得ないのはどこの国の農業か。
一億火の玉だの、靖国で会おうだのと言って国民を死と飢餓に追い込んだのはどこの国だったのか。他所の国を笑っていられるのだろうか。自分の足元を確かめた方が良いと思う。
対岸の火事を高見の見物というのも良い趣味ではないけれど、自らの足元にも気付かずに笑っているのだとしたら、むしろ喜劇なのかも知れない。
2005-08-04 カテゴリー: 言葉 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
歴史は夜つくられるなんて聞いた事もあるけれど、実際には全て、後年捏造されるものなのだろう。
相撲の屋根がただの入母屋から神明造りに替えられたのは、1931年、建築で言えば、上野博物館や九段会館(本来は軍人会館だ)の帝冠様式に対応する物かも知れない。そういう時代だったのだろう。
誰かが厳かにエラソーなことを言い出したら眉に唾をつけて聴くべきだ。そういう時に必ず怪し気な歴史主義が珍重される。
なぜこんな事を言い出すのかと言えば、高校野球に蔓延する回顧趣味或いは捏造された歴史主義に疑問を感じるからだ。
白い木綿のごわごわユニフォームや、不思議な襟、折り目のついた帽子が大嫌いだ。
そもそもあんなものいつから着てるんだ。野球を取り巻く怪し気な精神主義と泥臭い風土がむりやり捏造した日本だけのモノじゃないのか。
クラシックなユニフォームが嫌いな訳ではない。がんばれベアーズなんかを見ると本当に良いなと思う。
本来ユニフォームは少しダブダブ気味のフラノ地だったのではないか。いつごろから木綿のごわごわを有り難がるようになったのか。
帽子もクリケットの帽子が原形だとすれば、つばも半球部も小さめで柔らかいほどクラシックだと思う、折り畳んでポケットに仕舞うのが礼儀正しい、あるいは合理的だとも言うのだろうか。折り目が格好悪いとは思わないのか。
ドライビング ミス デイジーなどアメリカの映画を見るとその時代考証の綿密さに驚く。(西部劇を見ればアメリカを誉めてばかりもいられないが。)
先日TVで美空ひばりの話をしていた、中村雅俊がいつものままの不思議な髪型で丸眼鏡をかけて出ていた。走って行ってぶん殴ってやろうかと思った。あんな頭をしたやつがいたとは思えない。昔の話をする時にあの訳の分らない頭を変えたくない俳優なんていらない。つい50年前の時代にたいする考証のでたらめ、あるいは歴史に対する寛容と、力んだ時に表れる安易でデタラメな歴史への傾倒。根はひとつだと思う。
PS
アクセスの解析から、このエントリーに’歴史主義’という大命題からアクセスされる方が多い事が分かった。これは困った。デタラメな歴史の濫用を、捏造された歴史主義などと書いたのはきちんとした言葉の定義とは無縁の、それこそ濫用だった。
ただ、建築の世界では18世紀19世紀の様式建築、ベンチゅーリから果てはM2まで、はるかに安易な濫用を含めて、結果としての現象を歴史主義と呼んでも怒られないような気がする。真面目な話をしている人達にとって不謹慎だったかも知れない。
2005-06-09 カテゴリー: 言葉 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
昨日の帰り、地下鉄の席にあった、産経新聞。普段目にする事もなかったのだが、初めてみる世界が広がっていた。
今の部屋に越してから、朝日と読売を三ヶ月毎にとっている。どちらにも’オイオイ’と思うことがあるけれど、思ったより差がなかった。
その点で産経は予想をはるかに上回る、普段目にすることの無い異説を教えてくれた。
27日付けの正論欄で東京大学名誉教授 小堀桂一郎氏は現憲法の不備として、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三点が誤りとされている。
国民主権を’人類普遍の原理どころか、近代世界の異端者的反抗思想の所産にすぎない。’。
’人権などというものも、大衆の私的強欲や怨恨の情念を正当化する危険な暴力装置’
平和主義については’自衛権の否定であり、すなわち日本は主権国家ではないとの宣言’
だとおっしゃっている。
現憲法を米国にむりやり押し付けられたものだから変えたいという話は良く聞く。
(そうした論拠に立てば米国の都合でおしつけられた自衛隊という言い方もできてしまう。またアメリカの言う事を聞く以外にビジョンを持てないひとに限ってアメリカ製の憲法をいやがるという逆説もおかしい。60年前のアメリカにしっぽを振るよりも、現在のアメリカのお役に立ちたいとの実利主義とは言えるかもしれない)
しかし、ここまで正直な御意見にはなかなかお目に掛れない。
普段、北朝鮮とは違う色々な意見を聞きうる立場にいる積もりになっていた。
私達の耳に届くものもいくつものフィルターを通したものなのだと実感した。
ナベツネがテレビに良く出ていた頃、巨人ファンは、別の感想があるのかも知れないなどと、他人事のように思っていた。
ヤクルトファンもいつの日か特別の感慨を持つ日があるかも知れない。
巨人ファンは読売を読むが、ヤクルトファンは産経を読まぬなどと言うのは、言い逃れとして実効がないか。
2005-04-28 カテゴリー: 言葉 | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
イラクでイタリア人記者がやっと開放されたと思ったら、アメリカ軍に銃撃されて一人が死んで二人が大怪我をした。検問に、スピードを落とさずに突っ込んで来た、という米軍側のコメントもイタリア側から否定されている。
やっぱりな、外務省奥氏の殺害も、百%アメリカだなどと言う根拠は、勿論持ち合わせていない。けれど50%は可能性が残る。なによりきちんとした検証が必要だと思う。こうした時にアメリカにたてついてでも責任をハッキリさせる、地球の裏側で日本人が少しでも脅されたら陸戦隊を派遣するぐらいのことをすれば、国に対する印象も変わる。(外国に平気で軍隊を送る事は勿論許されないけれど)在外公館も内輪の役人の対応や使い込みでのワイン収集に忙しく邦人保護には熱心でない。明治以来、北海道の開拓も、南米への移民も、満州も、二次大戦の軍隊も、国は調子の良いことだけ言って全く責任を取らなかった。棄民あるいは見殺しにして来た。国民一人の生命よりアメリカとの関係を大事にしかねない。
愛国心の教育などと言い出すバカは順番を間違えている。アジアで日本人が何をして来たか、百歩譲ってどう思われているかを、教えないことで愛国心が生まれるとでも、本当に思っているのだろうか。
イラクから救出された女性兵士やプライベートライアンなんて話を聞くとアメリカがその演出に熱心なことに驚く。(成功したかどうかは別にして)
本来、愛国心など食欲、性欲、名誉欲の次あたりにすぐ 湧いて出てきてしまうものだ。何よりアメリカに盲従するのが右翼の本分といったねじれが丁度ふたになっているのかもしれない。国という単位が国民一人一人を大事にしない、幸せをもたらさない仕組みである限り無理だろうな。
2005-03-08 カテゴリー: 言葉 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
ラジオでストレンジフルーツと連呼している、どうやら新しいバンドの名前らしい。これは一体どうした事か。知らないで名乗っているなら、無知が許せない。知った上でやっているなら、その無神経に人間として生きていて欲しくない。アフロアメリカン全てを敵にまわしても悪趣味の限りを追求したいなら大した度胸と誉めてやっても良い。もともと無知蒙昧、無神経な若い人間のつけるバンドの名前などろくなものではないのかも知れない。ビートルズ、モンキーズなんてかなりお馬鹿だし、少し深刻ぶると、キングクリムゾンや、レッドツェッペリンだって誉められたものではないかも知れない。けれどこれは許せない。実を言えばゴスペラーズというのも許せない。やって良いこと悪いこと、何を恥ずかしいと思うかが完全に私とは違っている。一緒の空気を吸って同時代に生きていたくない。
PS あえて説明をすれば、公民権運動以前ずーっと、公然と行われていた白人によるリンチで枝に吊された黒人の死体の事だ。
PS2 なにも知らない若者が映画の名前かなにかで聞きかじって、その響きが気に入った、なんてことは十分に起こり得る。怒ってみても仕方がないのかも知れない、ただ自分達にとっても、大事な名前を付けようと言う時に意味を調べてみようとも思わないのだろうか、まして母国語でなければもう少し慎重になっても良いのではないだろうか。若いから馬鹿なのか、馬鹿だから若いのか。まぁ人の事は言えた義理ではないのかも知れない。私も沢山のひんしゅくを買ってきた。
2004-11-12 カテゴリー: 言葉 | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
高校の2年になって驚いたことのひとつは、私たち東京と言っても郊外育ちで長髪のロックファン(一方でコットンパンツとボタンダウンも良く着ていた、随分いい加減なものだった)とは、まるで違うリーゼント諸子の存在だった。高校の中ではロックファン以上の少数派だった。最初、遠くから様子を眺めるだけだったのだけれど、だんだんに、色々な話しをするようになった。誰より立派なリーゼントをしていたジョージちゃんはとても優しいいい人で、お金持ちだったので学校前の文法具屋の消しゴムを箱ごと買い占めて、みんなのために音のしないマージャンパイをそれは丹精込めて作ってくれた。おかあさんが歌舞伎町でお店をやっていて当時コーラ一杯が2000円だかという話だった。彼らは遊びに行くときは赤坂まで踊りに行くという話しで。気合いを入れて出かける時には誂えた玉虫のコンポラスーツを着るという話も聞いた。そこまで気合いの入らない時の彼らの服装は当時流行っていたアイビーにも似ていたのだけれど、必要以上にズボンは先が細く、クルーカットというよりはリーゼント、スタジャンよりはスカジャン(映画アメリカングラフィティの主人公たちがアイビーだとすればファラオ団といえばわかってもらえるだろうか)。当時彼らは既に本物のソウルを聞いていて、同じ突っ張りでも後の横浜銀蠅のようなドメスティックミュージックオンリーとは種類が違っていた。私達より遙かに遊び上手な街の子だった。同じ突っ張りの中でも完全な民族派と区別する意味で彼らをヤンキーと呼んだ覚えがある。その後ソウル好きは皆アフロヘアで先の広がったズボンをはいて新宿に行くようになった。リーゼント一派はアメリカの音楽や風俗、衣料とは何の関係もなくなったのだがヤンキーという名前は彼らにひきつがれたのだろう。
戦後のヤンキーゴーホームの時はアメリカ人全般を指したのだろう。南北戦争の時は北軍、その前はコネチカットの英国移民を指したらしい、それがなんでいきなり日本では不良といった意味になってしまったのか。イギリス人がアメリカ人を馬鹿にする時や南部の人間が北部の悪口を言う時に使うようだから日本でも当然アメリカを悪く言う時に使ったとすれば、社会のゴミとしてつっぱり君たちに使ったと言うこともあるかも知れない。もともとは関西でやんけを連発したり、品のないアメリカかぶれの不良を指したとの説もある。私の記憶がミッシングリンクを正確に繋ぐものかどうか分からないが、必ずしも民族的でない不良たちについても書き留めて置きたかった。(チーマーやラッパーなんてのもあったな)
PS 話が個体例に偏ったかも知れない。戦後アメリカの衣料と風俗が持ち込まれた中で、アイビーというのは、極くお上品な部類だと思われる。当然お上品でない部分も持ち込まれた訳で、ローファーでなしに先のとがった靴やリーゼントにビビッときちゃう人もいたと言うのが正確かな。
2004-11-09 カテゴリー: 言葉 | 個別ページ | コメント (4) | トラックバック (0)