芸術とは何かと言った問いに対して普遍の価値を求める行為だとどこかに書いてありました。しかし、実際に使われている日本語の中では、ピカソみたいなと言えば変な絵と言う意味ですし、岡本太郎は一般社会の外にいる変な人とのキャラクターを求められていました。だから日本語がどう使われているかから考えれば芸術とは’訳の判らぬ事’で芸術家とは’変な人’と言うのが正しい日本語の解釈でしょう。どちらも素人の係わるべき物でないと言外に言ってる様に思います。’芸術は爆発だ’との台詞はそれに続く一切の論議を否定するのに格好のものでした。
日本人は対等な立場での論議を好まないのだと思います。そうした論議を成り立たせる為に必要な個々の人間に依る別々の価値判断も放棄している様に見えます。一旦出来てしまった権威の評価に後乗りする事の方が既存の評価に楯突くことよりずっと得るモノが多いのでしょう。そうした仕組みを見抜いて、はったりは掛けた者勝ちだとしたのが北大路魯山人や安藤忠雄だなんて言ったら怒られるでしょうか。
長い前置きが言い訳になるかどうか判りませんが、ある権威に異議の申し立てをしたいと思います。法隆寺寺大工の西岡棟梁と言えば日本の社寺建築の第一人者で、大学の先生だって異論など挟めません。増して死んで仕舞いましたから議論を仕掛ける訳にも行きません。
彼の建てた薬師寺西塔の屋根勾配は対になる東塔と明らかに異なります。見た目におかしいだけでなく、瓦で雨を流すのには必要な勾配という物が有ります。誰だってあれぇ〜おかしいなと思います。彼の言い分は東塔だって千年を掛けてあそこまで垂れて来たのだ、新築時にはこれから千年の垂れを読み込んで置くモノだ・・・・・これを言われると言い返せる人などいません。かくも深いお話があったのですねとますます感心してしまいます。
実際、法隆寺五重塔や金堂の軒には後から入れた垂れ止めのつっかい棒が入っています。本当に垂れる訳ですから垂れる分を見込んでおくのはもっともに思えます。けれど垂れる事で釣り合いが取れるのなら垂れさせておけば良いのです。何でつっかい棒なんて入れるのでしょうか。あれ以上垂れて勾配が変わったりしたら組み物や他にもっと不具合が出てしまうからです。日本の大工、特に寺大工にとって屋根が建築の全てと言って良いでしょう。屋根勾配は見た目に係わる大問題です。そうした屋根の勾配にも少しは経年変化があるでしょう。勿論永年の木材の変化は読み込んである筈です。けれど勾配が何寸も変わってしまったらあちこちに不具合が出て来る筈です。
実はやっちまった可能性があると私は思っています。桁から垂直方向に屋根の出と高さを取れば勾配が出ます。垂木の実寸は出ますが棟木の実寸はでて来ません。平面図で見て45度方向への軒の出と高さを取る事で棟木の実寸が出ます。垂木の勾配と棟木の勾配とでは棟木の勾配は浅い物になります。何かの拍子に混同したりすると丁度あれくらいの勾配差が出て来ると思います。(同じ高さに√2(=1.41)倍の軒の出、ライズで言えば1/1.41の勾配そのぐらいに見えませんか?)
ピラミッドの様な四角錐の屋根を方形と言います。屋根では有りませんが四角錐の峰なりに4本の足が広がる図面を書いた事が有ります。実寸を出すのにと親切で書いた棟なりの図面を勾配なりの断面と混同された様でした。図面の書き方にも説明の仕方にも不味い所があったのでしょう。浅い勾配で大きく広がった四角錐が出来ました。私自身で似た様な間違いを経験しています。あれもそうじゃないかなと思っていました。どんなに偉い人だって間違う事ぐらい有るでしょう。御免なさいが言えない程偉くなってしまったのだと思います。
東西で対になった建物なんだから同じに建ててくれよ、左右で見た目が違ったらおかしいだろうって素人目からの感想に、私は賛成です。
「北大路」とあるべきが「北王子」になっていました。訂正します。玉井さんご指摘有り難う御座います。