今では、信じられない事だけれど、オーディオブームの頃にはカートリッジも色々な所で聞き比べが出来た。
特に第一家庭電器は熱心で、そこいら中にあるお店で何十ものカートリッジを聞き比べさせてくれた。
MM型ではシュアー。MC型ではデンオンの評判が高かった。けれども私の好みではなかった。
世の中の評判と私の都合とは別の物だと良く判った。
フィディリティ・リサーチ(以後FRと表記)のMC型・FR-1Ⅲが一番のお気に入りだったのだが、高くて手が届かない。 二年程の月賦にしてもらって、毎月阿佐ヶ谷の第一家庭電器まで千円づつを届けに行った。 小僧相手に良くあんな商売をしてくれたものだ。 後はSPUとデッカがあれば良い事が判って来た。後続のFR-7も高かったのを随分無理をして買った。
トーンアームのFR-64Sは未だに捜している人が多い。アメリカのネットオークションでは大変な値段が付いている。
当時で6万か7万で売っていたFR-64Sも今作ると、20万以上掛かるそうだ。日本の工業を支えた下請け工場が仕事を海外に取られて、立ち行かない。日本での物作りが難しくなっているのだ。月に千本の単位だったのが今は年に十本二十本、単位の違いも大きい。一分の狂いも許されない精密なステンレスの旋盤加工を、この単位では、中国に頼むのは無理だろう。
当時FR-64Sには欲しくても手が届かなかった。FR-1やFR-7をRMG212に付けてSPUと換えながら聞いていた。私がFR-64Sの中古を手に入れたのはずっと後、CDが行き渡ってレコードやプレイヤーを皆が放り出した頃だ。 1970年だか71年のFR-54発売の時にはFR-64の設計も出来上がっていたのだそうだ。当時いきなりあんなに高いトーンアームを作っても売れなかったのだろう。まずFR54でトーンアームで音が変わることを判らせる必要があったのだと聞いた。
(形だけで言えば一つ前のFR-54の方が綺麗だ。もうひとつ、アルミかステンレスかが、FR64と64Sの違いだと言われるけれど、ラテラルバランサーの大きさが違う。ステンレス製の本体の重さに釣り合う為64Sのウェイトは大きすぎる、64の小さいウエイトの方がオリジナルのデザインに近いのではないか?64Sを愛用しているけれど私自身はFR64の方が格好がいいなと思っている。)
その後FRが倒産して、FRの社長が一人で作り始めたカートリッジがIKEDAだ。他にいくつもあるMC型のカートリッジのほとんどは、基本的にはSPUと同じ構造をしている。先に付いた針でカンチレバーの根元のコイルを動かす。IKEDAは宙に浮いたコイルそのものに針が付いている。だからカンチレバーづたいに伝わる機械信号より、ずっとダイレクトな電気信号がコイルで起きる。
最近、あるお店でフェーズテックとマイソニック、現行のとっても高いSPUの三機種の聞き比べをさせてもらった。(こんな機会は近頃ではまずない。)マイソニックからは今までに聞いた事もない新しい音がして大いに感心したけれど、バイオリンを聞くのが苦痛だった。機械としての性能の他に、楽器としての音楽性を求められるオーディオ製品は誰かが最後の音作りをせざるを得ない。好き嫌いの分かれる所だけれど、池田さんの音作りは少なくとも私には相性が良い。
彼の作ったものはデザインも美しい。外部のデザイナーなどは使わずに、全て彼が構造も形も仕上げも決めたそうだ。
SPU式のMCカートリッジを設計したり、それを実際に作ったりできるのは、ある年代の日本人達以外には数える程もいない。その限られた日本人の中でもまるで新しいMC型の発電方法を考えだして製品化するなんて事が出来るのは彼だけだ。 増して、単なる技術者には到底出来ない音楽的な音作りや、形のセンス、こんなにいくつもの才能がたった一人の人間の中に詰め込まれているのが不思議でならない。 (ただ、経営の才能はまるで無く。任せていた副社長に随分とでたらめをされて、最後に倒産を選んだのだけが彼の選択だったそうだ)
普通なら新しい素材を実験する人、新しい発電の構造を考える人、最後の音作りの調整をする人、製品の形を決めるデザイナー。材料の手配加工から下請け工場への指示。
何人もの人がかかわるはずの仕事が彼一人によってなされている。 彼らの世代が死んでしまったら、この内の一つでも出来る人はもういない。
i-podが売れまくっているこのご時世にカートリッジなんて御呼びでないのかも知れないけれど、世界中の誰にも真似の出来ない日本の技術(人も工場も)が風前の灯火となっているのも事実だ。
何年かしまってあったプレイヤーを持ち出して去年からいじっているのだけれど、中々思うように鳴ってくれない。
IKEDAのカートリッジも、あるレコードの女性ボーカルで必ず歪む。
そんな時にインターネットでIKEDAの連絡先を見つけた。
電話をしたら、IKEDAもFRも見てくれるというので、カートリッジとトーンアームをまとめて見てもらった。
IKEDAのカートリッジについては、レコードの方が悪い、歪まないようにも出来るけれど、折角のカートリッジを鈍感にするだけの話だ。
だったら、ほかの鈍感なカートリッジを使ってくれ、IKEDAを使う必要は無いと言われてしまった。
ただトーンアームは接点抵抗や配線でロスが増えている。オーバーホールをして線材も換えた方が良いとの話で、お願いしてきた。
暮れに出来上がったトーンアームをもらいに東大宮まで行って来た。
色々な面白い話を伺った。
海外ブランドの高いカートリッジも実は、こうした日本のオーディオブームを支えた人たちが作っていたりする。 池田さん自身は、何度かあった海外からのOEMの話は断ったそうだ。 けれど彼の廻りの人たちが作ったものを、あれもそう、これもそうと教えてくれた。
トーンアームについたラテラルバランスやインサイドフォースキャンセラも、色々ついている方が客が喜ぶのでつけた。
実は、ああいったツノをつけると振動を拾ってろくな事が無い、無くても構わない。
とか、トーンアームの感度が大事でシェルの上に薄い紙一枚置いたら動くのが良いアームだなんて誰かが言うものだから、
軸を通る線材を細くせざるを得なかった。おかげで音が悪くなったとも言っていた。
売る為には営業や評論家の言う事も聞かなければならない。
工場に在庫している線材を使わざるを得ないこともあった。
思い通りに出来ない事が山程あったのだそうだ。
接点や線材を換えてもらって、機械部分のオーバーホールをしてもらったトーンアームはすこぶる調子が良い。
歪みも小さくなって、ずっと音が大きくなった。
古くなった往年のトーンアームを使っている人は一度、彼らが元気なうちに見てもらった方が良いと思う。
全てのデザインは自分でやっているとの話しはIKEDAについての話しだったのかも知れない。FRの頃には瀬川冬樹氏もデザインをしていたという話しを別の所で聞いた。真偽の程は未確認。
FRのトーンアーム64Sは私がデザインしたと評論家の柳沢氏がステレオサウンド誌に書いていました。2018 3/5加筆