父親の事務所が目黒にあったものだから、子供の頃から’とんき’は良く知っていた。
両親には、何か機会のある度に、’とんき’に連れて行ってくれとせがんだ。
同じ目黒の駅前でも今とは少し違う場所だった。
脇を抜けて店の裏、山手線の擁壁の上からおしっこをした覚えがある。
店は全てカウンターで、壁沿いの客席より、カウンターの中の厨房の方が広い。
中の床に敷かれた白木のすのこが、客席からも良く見える。
中央の鍋でかつを揚げる廻りを、忙しく従業員が動きまわる。
カウンターに並んだ何十人かの客にタオルを出して、お茶を入れて、注文を聞いて、
待っている間に新聞を持って来て、最高のタイミングでかつを出す、御飯とキャベツのお代わりを、客が言い出す前に確かめる。
カウンターの外で待つ人の順番に気を配る。
日本では客商売やサービスと言うとフカフカのソファに座らせて、ひざまずいてタバコに火を付ける事だと考える人もいる様だけれど、そんな暇があったら、気を配らなければならない事が山のようにある。
まして、もみ手でお愛想を言ったりする事ではない。
寿司屋のカウンターのように厚くはないけれど、白木のカウンターは染みひとつ無くて、食器棚からフード、壁までステンレスは毎日磨いてピカピカだ。
今から考えれば、一つの強烈な美意識というかプライド見たいなものがあったんだと思う。
その後、高円寺の北口にも支店が出来て、昔の目黒の店と同じように、良く気の付く女将さんがてきぱきと働いていた。
かつを揚げる旦那さんと女将さん、息子さんらしき人の他にも何人か若い人がいて、次々と待つ客をさばきながら、手の休まる時がない。
何度か通っていたのだけれど、子供の頃程旨いとは思わなくなっていたのも事実だ。昔と味が変わった訳でもない。他に旨いものが増えたせいだろうか。
暫く足の遠のいている間に高円寺の店はどこかに移ってしまった。
去年の秋に私も引っ越して、とんきが東高円寺にあることを教えてもらった。又寄ろうと思うまま機会がなかった。
試しに寄ってみるとあの夫婦が二人でお店をやっていた。七時過ぎだと言うのに、お店は空いていた。
旦那さんは足をひきずっている。どこか悪いのだろうか。奥さんも昔の元気が無い。フードも毎日磨いている訳でも無さそうだ。
あの二人にフードの裏まで、毎日磨けというのも酷だ。少し寂しいけれど、味は昔のままだ。又来よう。
PS
大学を出た頃に一度、目黒の店に行ったことがある。場所も変わって大きな建物になっていた。
昔のようなカウンターではなくてテーブルと椅子四つの組み合わせが並んでいた。
パートのおばさん風のホール係が何人か集まっておしゃべりしながら、油を売っていた。
随分と落胆して、味を覚えていない。