子供の頃、映画の価値は本物の戦車が出てくるかどうかで考えていました。どんなに大作映画でもアメリカのパットン戦車にハーケンクロイツや鉄十字を描いた偽物ドイツ軍が出てくる映画を心底見下していました。まして戦車の出て来ない恋愛映画など、同じ料金を取るのは詐欺に近いと本気で思っていました。人間としての情緒の発達に欠けた所がありました。
ワイエスは、初めて見たのが高校の頃だった気がします。中学だったかも知れません。日本で展覧会があった筈です。父が好きでした。私もその画力と、画面の質感、空気感が好きでした。けれどその圧倒的な描写力からすると不自然な狂いやデフォルメに気が付きながら、あえて目を反らして来ました。その技術だけに目を取られていました。完全な写実からはみ出た部分にこそ顕在化する彼の主題に興味を持ちませんでした。
最後の作品かどうか失念しました。今まで描いて来たモデル達が輪になって踊る’SnowHill’を見て、あぁブリューゲルじゃないかと思いました。踊るモデル達は明らかに実像を写した物ではありません。彼は自らのテクニックを誇るために絵を描いてきた訳じゃない。伝えたい主題が有るのに、私は今まで見ようともしなかった。胸に刺さりました。
’クリスティーナの世界’もその画力故にあたかもワイエスの眼前にそうした実像が存在したかに思えます。けれど這って家に帰る彼女を見て心を打たれたのは事実でも、画面はそうした事実を何度も心の中で再構成した、ワイエスの心象風景なのです。画中ある種の物語の存在に技術至上の私は評価をしかねていました。物語の為の技術だった、重要さの順位を入れ替える事で初めて腑に落ちました。
絵が上手い所為でそうは見えませんが、ワイエスはただ眼前の実像を描いた訳では無かったのです。下手な絵の多い、シュールレアリスムとは別の世界だと思っていましたが、完璧な風景でさえ写実ではない彼の心中の景色だったのです。恥ずかしい事ですが何十年も経ってから、今更気が付きました。
本物の4号戦車やキューベルワーゲン、R75サイドカーの出てくる、’コンバット’はテレビでしたが、感心していました。