亡くなった父はスピットファイアが大好きで、昭和17年の卒業制作もスピットファイアの翼を鉄骨で作る航空記念塔というものでした。戦争中に敵国戦闘機が好きってどうだったのでしょうか。(一緒に工芸科図案部を卒業した久保さんの卒業制作もスピットファイアですが、左右に幾何学形態と有機形態があってその重なる所に船とスピットファイアの三次曲面を配置した凄い作品です。記念塔の方はともかく、こちらの卒業制作は機会があったら見て欲しいと思います。)
父のスピットファイア好きを知る人からスピットファイアの出てくる映画を勧められました。充分以上に楽しめました。ケチを付けよう、揚げ足を取って貶めようって話じゃ無いんです。けれど、気になる所があって覚えを残して置きたいと思いました。
宇都宮の飛行学校を出た同期はそれぞれの適性に合わせて部隊が決まって行きました。最新式の三式戦や四式戦に乗る人もいたのに、父は少年飛行兵の教官にされて九七戦をあてがわれたそうです。二枚プロペラ低翼単葉固定脚、陸軍では隼の前、ノモンハンの主力機でした。他所では言わないと思いますが、家族の中では俺は上手かったのにと悔しがっていました。三式戦に乗った人は皆死んでしまったそうですから、生き残ったのは九七戦のお陰でしょう。空戦の強者ではありませんが、戦闘機乗りのはしくれではありました。
戦意高揚の為、大戦中から空戦の映画はありました。映画やプラモデルの箱の絵には一つの画面に何機もの飛行機が飛び交っているのが普通ですが、巡航中の編隊ならともかく空戦の中では二機三機の飛行機が一つの方向に長く平行して飛ぶ事は考えにくいと思います。互いに向きの違う戦闘機が200キロ300キロですれ違っても相対速度は400キロ500キロになります。一つの視野に入るのは一瞬の事です。あれはおかしいと常々言ってました。
飛行機は何も無い所をまっすぐ飛んでいる様に見えますが、絶えず向きの変わる風の中を舵や推力を調整しながら飛んでいます。今のジェット機の事情は違うかも知れませんが、大戦中の戦闘機はプロペラの推力と大きな翼でかろうじて浮く凧の様なものです。風に煽られて浮いたり、エアポケットで落ちたり、横風で吹き飛ばされたりしながら飛んでいます。冒頭の三機編隊は翼を接する様に飛んでいますが、見せる為の曲技飛行でない限り風一つで互いをぶつけかね無いあんな飛び方はしないと思います。
大戦前半にどれだけのレーダーがあったのか知りませんが、実用化されたのは後半かと思っていました。今時の戦闘機やミサイルがレーダーを避ける為高度を下げるのとは違うとすると、海面すれすれを飛ぶのは不自然とも思います。敵機との遭遇時にも低いポジションは不利です。洋上の索敵の為には雲の下を飛びたい、高度を上げられないとは思います。けれどあんなに低くては見渡す事も不利に思えます。画面に大きな機影を見せたかった映画の都合でしょうか。
車のバックミラーは車線の後ろを見る事が出来れば良い訳ですが、戦闘機のバックミラーは後ろ全ての広い範囲をを見る必要があります。近くても何十メートル、何百メートルか離れた機影は点の様なものでしょう。バックミラー一杯に映る後続機ってどれだけ傍にいるのでしょうか。真後ろに居たってあんなに大きく映る筈は無いと思います。
勿論私は空戦を知りません。けれど後ろに付かれたら撃たれるものと考えます。過去映画の空戦シーンでは後ろに付かれたと気づいたら水平だった主翼を垂直近くまでバンクさせて落ちる様に旋回して逃げるのが常道かと思っていました。左右にフラフラするだけでは逃げられ無いのは当たり前に思えます。これは素人の違和感に過ぎません。
主役のスピットファイア3機の他にも、ドイツ側のユンカース・スツーカ、ハインケルHe111、メッサーシュミットBf109と出てきて楽しめました。Me109は黄色いエンジン部分の形が替わっていて、あれは何十年か前の映画Battle of Britain(邦題は空軍大戦略)でも出てきたスペイン空軍で残っていた個体かも知れません。何度も言いますが、気になる所を覚えて置きたかった。文句を付けようって話じゃ無いんです。
西部劇や戦争映画が沢山作られていた頃には文法みたいなお約束があった気がします。70年代になってあれは作り物だった今こそ真実の西部劇をなんて話がありました。作られたお約束に縛られない真実もありますが、沢山作っていた頃には当たり前だった真実が暫く作られない内に失われてしまう事もあるのかなと思いました。今でこそ出来る真実と今は失われた常識の両面があるのかなと。
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