久しぶりにCar Graphicを買いました。最初に買ったのはヴァンケルエンジンのベンツが表紙でした。中学高校になって少しお小遣いも増えてからはバックナンバーも集めました。50号から150号までは抜けが無かったと思います。雑誌を通して、編集長の小林さんから教えてもらった事は色々あった筈ですが、覚えているのはブレッド&バターとか、熱いナイフでバターを切る様に、と言った言い回しが少しだけです。あぁ、エンスージアズムなんてのもありました。ワンメイククラブって言葉もそれまで知りませんでした。安いオースティン7のクラブも高価なブガッティのクラブも彼の中では等価だったこと。世間での価値の高低とは別の所で、自分の好きな物とどう付き合うかを教えてもらった気がします。毎月の雑誌は車という事実の羅列に過ぎなかったはずです。偉そうな人生訓や利に聡い処世術などはありませんでした。けれど違う所で’君たちはどう生きるか’を教えてもらった気もします。偉くなる事や儲けることだけが大切な世の中だとしたら随分と辛いことです。ご近所ではありますが、銀のさじをくわえて生まれて来た小林さんと私とでは世代も違えば住む世界も違います。交わる所は一切ないものと思っていました。小林さんが愛用したのと同じシトロエンXantiaに何年か乗れたのは嬉しいことでした。彼が普段の足にしている事は何度か読みましたが、随分なお気に入りだった事は私も手放した後に知りました。
あらゆるオモチャは父親の手造りでした。手で転がすしかなくて、友達の電池で動くオモチャが羨ましかったのを覚えています。日曜の夕方やっていた’アンタッチャブル’を見た後、トンプソン・サブマシンガンのオモチャを作ってくれました。西部劇に出て来る騎兵隊の帽子も作ってくれました。妹はお姫様ごっこの為のお城やおままごとの為のキッチンを作ってもらいました。本人の好きなものなら何でも作ってくれました。けれど嫌いな物は作ってくれませんでした。小学生の3年か4年の時でした。私は平行の物を平行に描くと、目で見た様にならない事に悩んでいました。透視図や消失点なんて言葉も知りませんでした。カメラの仕組みを使って、人の目に物がどう見えるかを説明をしてもらった時には急に世界が開けた様に感じました。
そういえば暫く前には中村とうようも亡くなりました。彼の雑誌’ニューミュージックマガジン’を見ていたのはレコードの新譜紹介が目的でしたが、いつの間にか好きな音楽を自分で考える事を教えられた気がします。若い人間が年長の人間に何かを習うことも、そうした年長者が先に亡くなるのも無理の無い事ですが、これからどうした物かと思います。三人に共通しているのは、どうしたら立身出世が出来るか、どうしたら儲かるかなんて事は一切言わなかった事です。好きな物についてしか話しませんでした。
追記12/14 今日は永田さんの訃報が届きました。勤めたばかりの頃、arflexのカタログに載っていた、内外ともに床トラバーチンの家を見て、前からこの家が好きでしたと言ったら、玉井さんが永田さんの名前を教えてくれました。(内外のレベル差と柱で建具の框を隠すのは村田さんも真似していたなぁ。) 色々なつてで随分な数の作品も見せて貰いました。吉村一門の丁寧な枠廻りや低い天井を実際に見る事が出来て感じる所が多くありました。小賢しい枠廻りやディテールより他の所に建築の本質があるとのお考えは正しいでしょう。けれど永田さんの家を体験した上で言って欲しいものです。幾つかの作品を見る事でようやく吉村一門とだけではくくれない永田さんの何かが見えて来ます。まだ上手く言葉にする事ができません。新作でそうした違いを確かめる事も出来なくなりました。
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