中学の頃、深夜のラジオでヒットチャートをチェックする事ぐらいしか出来ませんでした。
高校に入って音楽って何だと考えるきっかけを与えてくれたのは、新しく出来た友人とニューミュージックマガジン誌のレコード評だったと思います。そうした音楽の何に惹かれるのか、ルーツとしてのブルースを教えてくれたのは様々なメディアやミュージシャンですが、中でも中村とうよう氏の存在は大きかったと思います。ニューミュージックマガジン誌の編集長として、色々な紹介記事の中で、ブルースフェスティバルの主催者として。中々レコードも買えない訳ですから、彼のラジオ番組で初めて聞かせてもらった曲も沢山あります。
直接の面識はありませんが、随分色々な事を教えてもらったのだと思います。B.B.Kingに対する評価の低さだけは納得が行きませんが、そうした好みや考えがあるのも彼らしい所ではあります。
自分の老い先を考え、膨大な音楽に関する資料全てを武蔵野美術大学に寄付して、その整理の為に大学の研究員になったのだそうです。知りませんでした。
椅子やポスターの収集、更に膨大な音楽資料、大学は社会に対して大変な責任を負いつつあります
こうした資料を社会の為に有効活用さらに整理管理して行くのは、人間一人の一生どころか人類全ての歴史を当てても追いつかない半減期を持つ核汚染物質を、人間が管理出来るのかに似た所があります。
所詮、人間一人のやった事ですが、後世の人間にそれが全て把握出来る物か?
一人の人間ってちっぽけではあるけれど随分大きな物だとも思います。
残念です。
はじめまして。小生も高校生のころに「ニュー」が付いてたミュージックマガジンを購読していました。今回の出来事に関しても同じような感想をもち、失礼ながらコメントさせていただいた次第です。当時すでにロッキングオンがあったのですが、中村氏らのジャンルを超越した(良い悪い派自分の都合のようなところがなきにしもあらずでしたが、そんなところも含めた)世界観のようなものにあこがれをもっていました。おかげで30年後のいまもワールドワイドに音楽を楽しんでいます。亡くなられた理由はわかりませんが、ありがとうの気持ちでいっぱいです。
投稿情報: 杉 | 2011-07-27 07:54
創刊当時 彼の考えたニューミュージックと、その後の日本のニューミュージックにはちょっと違いがあったのでしょう。本の名前を変えざるを得なかった事。渋谷陽一氏とは子供の様ないさかいがあった事。ポピュラーミュージックを扱いながら人気がありすぎる物には反感を隠さなかった事。
’自分の都合’や自分の思い通りにはならなかった事。
全てを肯定しにくい所もありますが。色々なでこぼこを含めて彼らしいと思います。
投稿情報: kawa | 2011-07-27 11:45