私が学校に行っていた時分に、打放しと言えば、スズキマコトと相場が決まっていた。都市住宅誌のスズキマコトとカーンのキンベルには随分憧れた。これは私だけの話じゃなくてあのころの一般的な話だと思う。安藤忠雄も最初はスズキの二番煎じぐらいに思っていた。
勤め始めたころもピン角の打放しがやりたくて、仕方がなかった。けれど仕上げは無いのか、これで終わりかと、施主に顰蹙を買うことも多かった。
言い出した手前ジャンカを出す訳にも行かず、打設には必ず立ち会って、梁底の掃除をしたりスペーサーを入れたり、打設後に壁と柱を、階高より長い鉄筋で10センチ毎に底(ひとつ下の打継ぎ)まで抜き差しして回っていた。だからコールドジョイントは出来なかったと思う。そうしている内に、窓の下にコンクリートがしっかり回ったか、どこにミキサーが来るか、ポンプ車を置くのはどこか、どこから打ち始めて左官の直押さえはいつ始めるか、色々な事が気になりはじめる。無闇にスラブのレベルを変えることや、横長の窓をやめて、鉄筋の間隔やかぶりを取る事、鉄筋の継手長さ、スランプのチェックに夢中だった。
今になって考えれば、工事者と監理者とのきちんとした仕組みを作るのが先で、設計の小僧が走り回ってどうなる訳でもなかった。その後きちんとした工務店に頼むようになってから現場を走り回るようなことはしていない。
あんなに嫌われた打放しもどうしたことか、近ごろではお客さんの方からのリクエストも多い。打放しはカッコ良いというコンセンサスがやっと社会の中に出来たらしい。建築家の独りよがりでなくなったのはおめでたいことだけれど、今はやりたいと思わない。
何より重くて地盤に負荷が大きい。建物が永遠でないとすれば、ほんの何十年かのカサブタのようなものが何千年何万年も掛って出来た地盤を痛めて良いものだろうか。アメリカの合板は昔から松が多い事を考えればアジアの熱帯からラワンを取り尽くしてしまった原因は日本のコンクリート工事で使う仮枠の合板のせいかも知れない。住み手に取っても夏の暑さを躯体一杯に溜め込んだり、いくら暖房しても壁からの冷輻射が大きかったりで快適な室内を実現しにくい。材料を選ぶ時にはその地盤や使い方、色々な事を考えて決めたい。どこかの雑誌で見た家が格好良かったからだけで決めて欲しくない。
ここしばらくは吹き抜けに白い螺旋階段があってコンクリート打放しの家に住みたいなんて言われるとうんざりしていた。
土曜日に奥山信一さんの新しい住宅を見て来た。塔の家や水無瀬の町家を思い出した。上にあげたような問題が解決される訳ではないけれど、コンクリートには他の材料では出来ない魅力のあることに又気付かせてもらった。
コンクリートについては色々建て前を並べたけれど、洋服や車のはやりすたりのように同じものが回りに増えると飽きてしまう。しばらくすると又カッコよく見えてくると言った問題なのかも知れない。
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