ソーグーッ、ソーグーッ、アイガラユー。
ここ3日ぐらい頭の中からJBが離れない。
ジェームス・ブラウンが日本に来たのは、高校の1年の時だった気がする。
それまで身の回りにJBのファンなんて見たことが無かった。
自分の知らない世界がいきなり現れた気がしたけれど、自分が足を踏み入れようとは思わなかった。
2年になってクラス替えがあってから違うクラスの人とも話す機会が増えた。
一番立派なリーゼントを決めていたジョージちゃんは、話してみたら優しい良い人で、
新宿にあるお母さんのお店にはオネーサンが沢山居て、当時コーラが一杯2000円と聞いて驚いた。
週末になると、誂えた玉虫のコンポラスーツを着て赤坂に踊りに行くなんてライフスタイルも私は知らなかった。
東京と言っても郊外育ちの私とはまるで違う街の子だった。
同じリーゼントでも当時のソウルディスコファンと横浜銀蝿ファンとでは音楽の好みが違うし、
ヤンキーって言葉からアメリカって意味が失われて不良と同義語になるのには少し時間が掛かっている。
’’リーゼント’’や’’ヤンキー’’が少しずつ意味を変えて
ジャパンドメスティックな物になったのは何時頃だろう。
ソウルディスコファンの中では、リーゼントとテーパーしたズボンが、カーリーヘヤとバギーパンツに変わって、
赤坂から新宿に移ったのはそのすぐ後らしい。どれも伝聞だけれど。
短髪にスーツだったマーヴィン・ゲイやウィルソン・ピケットが髭を生やしたりカーリーヘヤになったのと少しタイムラグがあるかな。
当時、私自身はサム・クックやレイ・チャールズは大好きでも、JBとアレサが解らなかった。
その後ジェームス・カーやオーティス・クレイなどのサザン・ソウル方面に傾いた。
ディスコに行こうとは思わなかった。
アレサの良さに気付いたのは、大学を出た81年、映画ブルース・ブラザースでの食堂の女将さん役だった。
JBは80年代も後半になって、立川の野外コンサートを見てからだ。
広い公園の芝生に食べ物飲み物も持ち込んでの大きなコンサートだった。
他にも色々な出演者がいた筈なのにJBしか覚えていない。
良く訓練された大きなバックバンドだけで何曲かやって司会者が口上を述べると御大の登場となる。
一連の流れで成り立つ総合芸術だから、一曲だけをラジオやレコードで取り上げても意味がない。
やっと意味が判った。
JBの曲を日本人が歌っているのを何度か見たけれど、まるで曲にならない。
旋律がなくて、抑揚と勢いと張ったりで成り立っている様な音楽だから、難しいんだと思う。
で、ハマケンです。CMで見かけてこの人誰だろうと思った事はあった。
ミュージシャンだなんて知らなかった。
聞いてみたら、上手い!もう大拍手。
その後、他のムジカ・ピッコリーノを沢山見たら、ボーカルだけじゃ無い。
トロンボーンにベースにギターなんでも弾けるみたい。すっかり大感心。
在日ファンクってバンドらしい、探して見ようかな。
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